2014年5月7日水曜日

九條さんの思い出


九條今日子さんが亡くなった。

3月に朝倉摂さんが亡くなってから
まだ2カ月もたっていないのに、
池の下を長年に渡って支えてくださった方が
続けて泉下の人となった。

これまで池の下の寺山作品をほとんど
見てもらい、その度に感想を聞かせていただいた。
はっきりとした視点でアドバイスしていただくこと
もあった。ときには公演後、お酒の席にご一緒する
こともあり、天井桟敷時代のお話をいろいろと
伺ったりもした。

九條さんとの出会いは
れも偶然ではあるが朝倉さんとはじめてお会いした
「アラバールの大典礼」の現場だった。
稽古場で音響担当のHさんを叱っているのを見て
怖い人だと思った。だからその後に寺山作品の
上演許可をお願いする際に電話で緊張したことを
覚えている。

はじめて池の下を見てもらったのは
「花札伝綺」だった。公演が終わって劇場の入り口で
九條さんが出てくるのを戦々恐々と待っていた。
私を見つけると近づいてきて、タバコに火をつけながら
「寺山が見たら喜ぶわ」と言っていただいた。
「この辺に酒屋ある?」と聞かれ、しばらくすると
ビール1ケースの差し入れがあった。
そのときから18回目の寺山作品「阿呆船」まで
毎回差し入れをいただき、励ましてくださった。
池の下が寺山作品を上演していく中では
さまざまな困難もあった。とくに初期の頃は
観客から天井桟敷の上演方法と違うとクレームを
言われることもあった。終演後に怒って舞台装置を
蹴って壊そうとする人もいた。しかし、それでも
寺山作品を続けて行こうと思えたのは、九條さんの
応援があったからだ。
もう劇場に足を運んでもらえないと思うと途轍もなく寂しいが、
天国から寺山さんとお二人で見てくれていると心に思い、
これからも寺山作品を上演して行きたい。

2014年3月29日土曜日

朝倉さんの思い出


遠くに行ってしまったんですね。

そちらの世界はどうですか。

やはりなかなか面白い芝居はありませんか。

 

アトリエを訪れるといつも芝居の話になった。
最近みた芝居について歯に衣着せぬ感想を聞いた。
最後にお会いしたとき芝居の話は出なかった。
体調があまり優れない感じだった。
それから10ヶ月・・・先生は遠いところに旅立った。
そっちではどうですか?面白い芝居はありますか?
きっと先生の好きだった名優たちと演劇談義に
花を咲かせていることでしょう。

朝倉さんとはじめてお会いしたのは20代前半。
PARCOパート3で上演されたアラバールの「大典礼」で
舞台スタッフをやっていたときのことだった。
アトリエでデッサンを広げながらイメージについて
語る言葉が印象的だった。

それから10年以上たって、池の下を結成した。
そして寺山修司の連続上演をはじめたとき、一度で
いいから朝倉さんに美術をやってもらいたいと思った。
全くの無名劇団にも関わらず無謀にも電話したのだった。
断られることを覚悟していたが、一度会って話を聞きたい
と言われた。数日後、緊張しながらアトリエへの坂道を登った。
上演する予定の芝居について1時間くらい話した。
やりましょうとの言葉に一緒に行った劇団員と喜んだことを
覚えている。それから15本の芝居で舞台美術を担当してもらった。
打ち合わせのたびにイメージが広がって、小劇団ではとても
出来ないプランになったこともあったが、劇団の事情も
よく理解してくれて、舞台の実現化のための様々な方法も
考えていただいた。演劇の舞台ではなかなか使わないような
素材も斬新に用いて、既成概念を打ち破るような美術がいくつも
出来上がった。

劇団のトラブルで決まっていた公演が中止になり、
活動が休止したときは、心配して自宅近くの居酒屋に
呼んでいただき、劇団活動について色々アドバイスをしてもらった。
そのときに、どんな障害があっても劇団を解散しないと約束した。
そうして18年間、池の下は活動を続けてきた。

朝倉さん・・・あなたはいつも少女のように好奇心旺盛で、
何事にも偏見をもたず、こんな弱小劇団にも本気で
つき合ってくれました。本当に本当にありがとうございました。

この先は池の下が何らかの芸術活動を続けていくことが、
せめてもの恩返しだと思って、天国の先生に見せることが
出来るものを創って行きたいと思っています。
朝倉先生、長いことお疲れ様でした。

2014年3月11日火曜日

これでいいのだ


あれから3年たった。

あのときから何かが変わった。

それは日常のすべてに影を落としている。

 

赤塚不二夫の『天才バカボン』でエピソードの最後に
パパが「これでいいのだ」とよく言うが、いまの日本で
「これでいいのだ」と心の底から言うことは難しい。

あの前とあの後では、演劇に対する考え方、感じ方も変わった。
あの後はしばらく何を作ったらいいか分からなかった。
いろいろ考えて迷い抜いたあげくに、至極シンプルな結論に至った。
それは、いまやる意味のある芝居をやろうということだった。
別段その前は意味のない芝居をやっていたわけではないが、
芝居を作る上での第一義がいまやる意味があるかということに
なったのだ。

それから2作品を上演した。
どちらもいまこの国でやる意味があると考えて作った芝居である。
その意味がどこまで観客に伝わったかは分からないが、
現在まさに起こっている事の不条理を劇の中に少しでも感じて
もらえたならば幸いである。

このさき池の下はどこへ行くのか、
なにを求め、なにを作り、なにを伝えていくのか。
これから池の下はたぶん演劇にはとどまらない表現活動に
足を進めることになるのではないかと思う。
演劇という枠を越えて、人間という存在の不条理を探り続けて、
そしていつの日にか「これでいいのだ」と言える世の中に
なることを願って、池の下は活動していくつもりである。

2014年3月2日日曜日

3月に思う

また3月が来た。

春のイメージは3年前から確実に変わった。
何かがはじまる季節から、何かが終わる季節に・・・
そして人々は事故を忘れて、原発はすべて再稼働されようとしている。
さらにこの災害を起こした国の首相が自ら恥ずかしげもなく、
放射能を撒き散らした原発を海外に売ろうとしている。

日本はあらゆる意味で終わろうとしている。





2013年3月11日月曜日

復活の夢


あれから2年がたった。
あの前とあの後と多くのことが変わった。
それは被災地の人たちに起こったことに比べたら
極々些細なことかもしれない。
しかし、今でも確実に私の心のなかで
あの日を境に変わったものがある。

表現活動をする意味というものを常に考えるようになった。
表現として何かを残したいと考えるようになった。
表現の本当の意味での難しさを思うようになった。

しばらくは舞台を作ることが出来なくなった。
絵も描けなくなった。出てくるものは抽象的な言葉ばかりで
それが表現と呼べるものか分からなかった。
表現には他者が必要であるが、その抽象的な言葉たちは
自分の内面で共鳴するだけで、あえて鑑賞者を求めるもの
ではなかった。

あらゆる活動を停止して1年間、ほとんど冬眠状態で
過ごしてきた。そんなときに1本の台本と出会った。
はじめは台本自体も読む気がしなかったが、
一人芝居に近い形のその本は意外と素直に読むことができた。
読み終わってから、しばらくして夢を見た。
大きな建物の前に立つ一人の女性の夢を。
彼女はドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のように
旗をもって立っている。絵と違うのは、彼女はたった一人で
導かれる民衆は誰もいないということだった。
私は何かに急かされるような焦燥感を感じ、
目が覚めた後もいたたまれない思いに悩まされた。
しばらくは何かに追われるような焦りを感じて、
変な夢ばかりを見ていた。
そのとき予感のように閃いたのは、
この状況から抜け出すためには、この台本で
芝居を作らなければならないということだった。
それは、ひとつの啓示のようなものだった。
それがあったために、1年間の停止状態から
脱却することが出来た。

今、あらためて考えて、あれがいったい何だったのかと思うが
その後の日本の状況をある意味で象徴している
夢だったのかもしれない。
10万人を越える参加者を集めていた国会議事堂前の反原発デモは
最近は参加者が200人くらいにまで落ち込んでいるらしい。

だが、私の夢のなかの自由の女神は
たった一人でも旗をもって立っていた。
一人でもはじめられる、一人からはじまる。
夢が教えてくれたのは、そんなことだったのかもしれない。

2012年12月31日月曜日

闇の力


久しぶりの池の下の公演が終った。
おかげさまで全回満員御礼。
新たなシリーズも順調にスタートした感じである。

そして一段落する間もなく
今度は寺山修司作品である。
私の大学時代の同期が主宰する青蛾館の企画で
寺山の初期一幕劇の「白夜」「狂人教育」「犬神」
3作品を連続上演する。その内の一作品を私が演出する。

演出するのは「犬神」。
池の下では1999年に中野のザ・ポケットで上演した。
その後、2006年に利賀演出家コンクールで野外上演。
賞して、翌年の利賀フェスティバルで再演した。

今回、あらたに初演の地であるポケットスクエアで
上演するのも、なんだか因縁めいているが、13年目の
「犬神」を新しいメンバーでどのように作り上げるか
今から楽しみである。

この奥深い日本の闇に結びついた芝居について
考えながら、ふと、ある小説の一節を思い出した。

「どうして神聖は闇を背景にしていなければならないのか」

大変に意味深い問いかけであり、宗教とか神話とか様々な
神秘に対する、真実が潜んでいるように思える。
闇に宿る神聖は、今の日本ではすでに失われているように
思えるが、もしかしたら日本という国を動かす大きな原動力
この闇の力ではないだろうか。

闇について空想を広げながら、今回の芝居では
そんな闇がきらめく一瞬が見せられたらと
思っている。

 

2012年12月2日日曜日

素晴らしきバカ色ダンス



もう随分と前のことになるが、舞踏にハマっていた。
大学そっちのけで大野一雄舞踏研究所に通い、
大駱駝艦の合宿に行ったり、
笠井叡のワークショップに参加したりしていた。
 
だから、世田谷パブリックシアターの『ハヤサスラヒメ』は
かなり気にはなっていた。
しかし、なぜか見ることを躊躇いチケットは買わなかった。
だが、今日が楽日だというのをTwitterで知って
発作的に行ってしまった。
 
公演を見て、まず感じたことは
土方巽という同じ原点をもった麿赤兒と笠井叡が
半世紀をへて、このようにシンカ発展したのかと
いうことだった。
しかし、結局はまた同じカラダというカラに戻っていく。
そんなことを考えながら見ていた。
 
舞台は、ミルククラウンのような白い踊り手の残像からはじまる。
やがてセンターの光の道にふたりの主役が対峙する。
狂ったように踊りまくる笠井叡に対して
ほとんど動かない麿赤兒
動と静。異種格闘技戦。
それぞれの式神たちの対決。
オイリュトミーの女官たちの前で、踊る麿赤兒に軽い眩暈を感じる。
 
第九の合唱の中で、異なるカラダはいつしか同一の動きを生み出す。
 
なかでも秀逸だったのは
チュチュをはいた笠井と、スカート姿の麿が見せる暗黒バレエ。
なんでこんなにバカらしく、なんでこんなに素敵なんだ。
これは、かつての土方巽と大野一雄の「バラ色ダンス」ならぬ
「バカ色ダンス」だ。
ともに69歳。
自分もまだまだ頑張らねばと思った。


2012年11月23日金曜日

なぜ上演するのか




いよいよ1年半ぶりの公演の稽古が始まった。
今回の上演作品は『エレベーターの鍵』である。
小説「悪童日記」で有名なアゴタ・クリストフが1977年に書いた
戯曲を、のちに本人がさらに手を加えて完成度を高めた作品である。
 
この作品を上演しようと考えたのは、今から1年以上の前のことだ。
これまで進めてきたプロジェクトとは異なった、演劇的な試みを
行いたいと思って上演を決めた。
 
上演が決まってから、さまざまな人たちから、
「アゴタ・クリストフが好きなのですね」と言われた。
そのような反応を聞くたびに違和感を覚えるのだが
演出家が、その作家の作品を上演するのは、
それがいま上演する意味があるかということと、
上演できる構造を持っているかということと、
演出家の考える上演に耐えられるかということが問題であって、
その作家を好きかどうかということはあまり関係ない。
むしろ敵対できるだけの強度を持っているかが問われる。
 
今回の『エレベーターの鍵』は、いまの日本で上演する意味のある
作品であり、上演できるだけの劇的構造を持っていて、演出プランの
実行に耐えられるだけの強度も兼ね備えたテキストであると思う。
池の下では、今後もさらに戦いがいのあるテキストを使って、
新たな演劇の可能性を探求していくつもりだ。


2012年6月20日水曜日

『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』を見て

若松孝二監督の『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』を見た。
井浦新が演じる三島由紀夫に最初は違和感があったが、
見ている内に何となくこれもありかと思えてきた。
実際の三島はもっと猥雑だったと思うが、行動に純化していく
過程を描くには、このくらいの誠実さがないとダメだろう。
しかし体はちょっと貧弱すぎる。あの腹を切ってもあまり
有難味がない。ともに切腹する森田必勝を演じる満島真之介の
ほうがいい。三島を決起にむかって強引に引っ張っていくところに
説得力があった。

しかし、思うに三島が今の日本に生きていたら、
現在のわが国の状況をどう思うだろう。
故郷の山河を壊滅させた原発事故に対して誰も責任をとらず、
きちんとした原因究明もなされぬままに、
きわめて政治的な思惑で原発再稼働が決められていく、
この日本に対して吐く言葉はあるだろうか。
もしかしたら三島は、あの時代で死んで
幸せだったのかもしれない。
日本人が、まだ行動によって世の中を変えられると、
はかなくも夢みていたあの共同幻想の時代に。

2012年4月19日木曜日

「ピナ・バウシュ 夢の教室」を見て

ダンス経験のない10代の若者たちが
ピナ・バウシュの「コンタクトホーフ」を踊るまでの
ドキュメンタリー映画を見た。

ピナ・バウシュのダンスは
あくまでヴッパタール舞踊団のダンサーの身体から
作られたもので、その動きを10代の若者たちが再現する
意味が果たしてあるのかとはじめは思っていた。

だが、意味は充分にあった。
ピナのダンスは、自分の舞踊団のダンサーたちへの
果てしない質問と答えの結果、立ち現れた動きだ。
それは、ダンサーの内面から抽出されたものだが
最終的には人間の本質的なところに分け入っていく。
そして、その動きは人間の普遍性に繋がっていく。

はじめは意味も分からず
与えられた動きをただそのままにやっていた若者たちが
次第に、そこに何かを感じて、自分のなかにあるものを発見する。
これは彼らだから見つけられたものであり
その時点でこれはすでに彼らの表現なのだ。

若いときにだけ見えるものもある。
そして、年老いてからはじめて見えるものもある。
この「コンタクトホーフ」は65歳以上の演者で
上演されたこともあった。

真の動きはやはり
時分の花を開かせるのだろう。

2012年3月11日日曜日

3.11 東京の片隅で

1年たった今日、多くの人がその思いを書くだろう。

東北で被災した人たちに比べたら
東京で暮らす私の1年目の思いなんて小さなものかもしれない。

それでもやはり書こうと思ったのは
あのときほど芝居をやることの意味というものを考えたことは
なかったからだ。

2011年3月11日14時46分。
あのとき、私は王子にある劇場の調光卓の前にいた。
強い衝撃の後に、平台を組んだ調光ブースは激しく揺れた。
劇場全体がミシミシと音を立てる。
このまま崩れるかと思い、一緒にいた劇場スタッフと
建物の外に逃げた。
揺れはまだ続いている。
電柱が大きく揺れ、向かいの3階建の住居もうねるように揺れる。
しばらくして揺れは収まり、劇場内を点検してから
仕事を終えた。

夜は、3日後に小屋入りをひかえた公演の稽古があるので
水天宮の稽古場に向かおうとしたが、電車がすべて止まっている。
王子駅前は人であふれている。
都営バスだけが動いていたので、満員のバスにかろうじて乗り込み
池袋まで向かったが、このさきも交通機関はすべて止まっていた。
これはもう駄目だと思い、今日の稽古は中止とのメールを制作に打つ
が携帯がまったく通じない。

とりあえず新宿まで出ればどうにかなるかと思い、明治通りをひたすら
歩いた。その時は、すでに1車線分が帰宅者の行列でつぶれていた。
1時間ほど歩いて新宿についたが、交通機関はまだ回復していない。
ファーストフードなども閉まっている。仕方がないので電車が動くまでと
思って、ゴールデン街の行きつけの店に行くと、2階にある店内は
ボトルが散乱し、スピーカーは落下し、足の踏み場もない状態の中、
ママが呆然と立ちつくしている。このままではどうにもならないので
割れたボトルを処分し、スピーカーを据え付け直して、1時間くらいで
何とか片づけ終わり、無事だったビールを飲ましてもらった。
その後、帰宅難民者の客が何人か来たが
12時過ぎに都営新宿線が動き始めたという情報が入ったので駅に
向かう。超満員の地下鉄で、ひと駅ごとに15分近く停車して、
ようやく2時過ぎに帰宅。

31階の団地の部屋は、廊下の本棚がすべて倒れている。
本棚と格闘して、本の山を乗り越えて、自室に行くまで15分以上
かかった。作業デスクは倒れ、パソコンが落下している。
チケット予約状況などすべてがパソコンに入っているので、
1時間近くかけて復旧。
メールを見ると、稽古場の水天宮ピットから、地震の安全確認のため
明日と明後日は使用中止になるとの告知。
このままでは明日から2日間の集中稽古が出来なくなる。
どうしようか迷い、時計を見ると午前3時半過ぎていたが、
ダメもとで公演を行うd-倉庫に電話をする。
何回かのコールの後、小屋つきさんが出て、事情を話し、
2日間稽古場として劇場をおさえた。
散乱する荷物の中を、明日からの稽古のための資料を用意して
気づいたら午前6時。朝になっていた。

その後、2日間の最終稽古は劇場で出来て、
怪我の功名などと言っていたが
原発事故の影響による計画停電で、公演初日まで本番が
できるか分からない状態だった。
劇場のある荒川区は停電地域に入っていたが、
地区が分かれているみたいで、どの地区が停電になるのか、
東電のホームページで調べようとしたがアクセスできない状態が
続いた。

さらに連日、チケットキャンセルの電話がかかってきた。
実家と連絡がとれない役者もいた。
こんな状況の時に芝居をやるのかという抗議のメールも届いた。
しかし、公演中止にはしなかった。
キャンセルはあるが、まだ公演を見ようとしている観客が
3百人以上いる。
舞台監督と打ち合わせて、地震時の避難対策は万全にした。
幸いd-倉庫は下手の鉄扉を全開すると、そのまま1階の駐車場に
出られる。舞監が誘導し、客席最後方にいる自分が最後に小屋を
出るつもりだった。
観客の入場前にも制作から、地震の時の避難説明があった。

だが実際に公演3日目、本番の10分前に震度3の地震があった。
舞台監督がすぐに客席前方に立ち
「ただいま茨城県沖を震源とする地震がありました。震度は3でした。
続行します」
とアナウンスをした。

その後は公演中の地震もなく、計画停電も指定地区からは外れて、
どうにか最終日まで公演を無事に終わらせることができた。

公演が終わり、考えた。
なんとか公演を成立させようと必死でやってきたが
この公演をやる意味は何だったのだろう。
そんなことはこれまで16年間劇団をやってきたが
考えたこともなかった。

演劇をやる意味。
それは表現したいことがあって
それを見たいという観客がいるということ。

それだけか。
それだけでいいのか。
それだけで本当にいいのか。
考えた。
そして劇団を一時休止して
さらに考えることにした。

1年間、考えた。

そろそろ結果を出したいと思っている。

2012年3月2日金曜日

生きる意味

このところ、連続して暗い映画を見ている。
「無言歌」と「ニーチェの馬」である。
ともに、絶望的な状況下での人間を描いている。

王兵監督「無言歌」の舞台は、1960年代の中国西部
ゴビ砂漠の収容所。右派と見なされた政治犯たちが
まともな食料もない中で、強制労働をさせられている。
飢えを凌ぐために、ネズミを食べたり、有毒だと分かって
いる植物を食べたりする。
つぎつぎと死んでいく人たち。
だが、その死体も無事ではない。生きのびようとする人たちに
食われていく。極限状況でも、生きつづけようとする人間たち。
救いはない。だが、人間は生きている。そんな映画だった。
暗いが、砂漠などの映像は素晴らしく美しい。
悲惨だが、美しいから見入ってしまう、そんな魔力をもった映画だった。

そして、昨日みたタル・ベーラ監督「ニーチェの馬」。
ひたすら強風の吹きつづける荒れた大地に棲む
父と娘の6日間の物語。
父は、半身不随で服の脱着にも、娘の手をかりなければならない。
唯一の収入源であった荷馬車の仕事は、老いた馬が荷台を
引けなくなり出来なくなってしまった。
毎日毎日、一個の馬鈴薯のみの食事。
井戸は涸れて、やがて光も失われる。
ここで描かれているのは、神が死んだのちの聖家族の生活だ。
それをモノクロの長回しで延々と見せていく。
宗教画のような神々しさをもった映像美だった。

絶望の果てでも、人間は生きつづける。
なぜだ?
なぜなのだ?
そんな疑問が私をとらえる。
そして、それは、人間はなぜ生きるのかということに至る。

人間が生きる意味。
分からない。
分からないが、人間は生きていかなければならない。

「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、
なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・・・・それがわかったら、それがわたったらね!」

この台詞が書かれてから100年以上たつが
それはいまだに謎である。

2012年2月24日金曜日

生かされる言葉

忘れられない思い出がある。

まだ、自分が20代の頃、
大野一雄舞踏研究所に通っていた。
世の中は、小劇場ブーム真っ盛りで、演劇の世界に違和感を感じて
しばらく遠ざかっていた時のことである。

その日は、水曜日だったと思う。
いつものように横浜市上星川の坂道を登り、研究所についた。
だが、大野先生の自宅の横にある稽古場には
誰もおらず、自宅を訪ねてみると、今日は先生が風邪気味なので
稽古はお休みですと家の人から言われた。
そのとき、奥から大野先生が現れて
「いいから、ちょっと中に入りなさい」と言われ
自室に通してくださった。
そして、少し狭めの和室で海外公演のビデオを見ながら、
いろいろと話をしてくれた。
舞踏について、素材について、稽古について
そして、話の中で
「空なるものは満たされている」ということを言われ
しばらく沈黙が続いた。
私は先生の目を見て、先生は私を見ていた。
1時間くらいお話を聞いてから失礼したが
帰り道、坂を下りながら考えた。

空っぽのものは、ほんとうは満たされている・・・
これは一体どういったことだろう。
しばらく考えたが、そのときの自分はそれがよく分からなかった。

先日、10年ぶりに大野先生の「舞踏譜」を読み返していて
あらためて、あの時の先生の言葉を思い出した。
そして、愕然とした。

「空なるもので満たされた演劇」
それこそが、これまで演劇をやり続けてきて
ようやく行きついた結論であり、
あのときの先生の言葉は、20数年後の予言だったと。

私をじっと見つめる先生のまなざしによって
いまも私は生かされている。

2011年12月15日木曜日

そして北へ

思い立って北に旅立った。

このような発作的な旅は、ここ20年ほどなかったが
今回は矢も盾もたまらずといった感じで
行ってしまった。
すべてから脱したい、そんな想いをもって。

新幹線で青森へ。さらに津軽線で三厩へ。
そうして最後は竜飛岬へ。ここが本州のどんづまり。
これより先は海に落ちるしかない。

高校生の頃から、ここには何度も足をはこんでいる。
何かに行きづまったとき、生きるのに迷ったとき
この北のはずれの海峡を見に来る。
自分にとってはひとつの聖地かもしれない。

激しい吹雪のなか、竜飛の灯台まで昇ると
荒海の先にかすかに北海道が見える。
飛翔するカモメのほかは誰もいない。
聞こえるのは風の音ばかり。

そんな中に雪をかぶった石碑があった。
以前、来たときはこんなものはなかったが
海を背景にした石碑の真ん中に赤いボタンがある。
なんだろうと思って、押すと
突然、「津軽海峡冬景色」の歌声が大音量で流れ出した。
石碑は、この演歌の歌碑だった。

石川さゆりには何の罪もないが
この荒々しい自然の風景のなかで
吹雪も、翔んでいるカモメも、海鳴りも
いっきにこのバチはまりのBGMを背負って
通俗の極みに転落した。

なんという異化効果だ。
感傷的な旅ごころに冷や水を浴びせてくれた。

しばし呆然としていたが
しかし、なんだろう
この大いなる裏切りの心地よさは?
あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。

笑ってしまったところで、私の旅は終わり
日常への切符を手にしたのである。
でも、やはり竜飛岬は変わらず私の聖地かもしれない。
また、思い悩んだら、まっすぐこの北のはずれの海峡に来て
「津軽海峡冬景色」を流して
カラオケのイメージ映像と化してしまった大自然を満喫したい。

2011年11月6日日曜日

俳優養成は可能か

ジャック・ルコックのレッスン課題に「子供部屋」というものがある。

「長い旅路の末に自分が幼いときに過ごした子供部屋に戻ってくる。
昔のままのその部屋に入り、懐かしい家具や思い出の品々を見て
確認する。気がつくとベットの下に、おもちゃ箱がある。ひらくと
小さいころ遊んだおもちゃがたくさん入っている。ひとつひとつ
取り出して、遊んでみる。子供の頃を思い出して、だんだんと
遊びに夢中になり、次第に子供時代に戻ってしまう。
そして、遊びのテンションが頂点に達したとき、ふと気づく。
大人になってしまった自分に。
遊びをやめて、おもちゃを片づけ、部屋を出る。」

言葉を使わないレッスンである。
演じる人の感性が如実に現れる課題で
わたしはある意味で怖いレッスンだと思っている。

以前、この課題を山形の高校演劇の講習会でやったとき
高校生たちがやる遊びにアウトドアものが多いのに驚いたことが
あった。
東京の専門学校では、最近はおもちゃ箱からゲーム機を取り出して
遊び始める学生が出てきたりして、アクティブな表現が減ってきた。
その上、前の人がやった遊びを同じようにやる学生が出てきて
新たな表現が見られなくなり、この課題もそろそろ賞味期限が
過ぎて来たかと思った。

ところが、中国の上海戯劇学院の表演系(演劇専攻)の
1年生対象に2週間のワークショップをやったときに、この課題を
やったところ、めちゃくちゃ面白かった。
次から次へとエネルギッシュに遊びがいくつも出てくる。
思わず「ガラスの仮面」の北島マヤのオーディションを思い出して
しまった。
そして、遊びが絶好調のとき、ふと我に戻り、大人になってしまった
自分に気づき、部屋を出て行くところなどは、まるで映画の
ワンシーンを見るような素晴らしい表現があった。

このとき思ったのは、俳優養成は同じカリキュラムでもやる人間に
よって、まったく別物なってしまうということだ。

そして、今年2月にこの課題を再び専門学校でやったときのこと。
そのクラスは半分近くがお笑い志望だった。
彼らはとにかく笑いをとることだけを考えるので
結果としての笑いはいいが、まずはこの状況を生きるように言った。
しかし、結果は悲惨だった。
この繊細な課題が凌辱されるような受け狙いばかりが続いた。
さらには、俳優志望の女子学生がかなり集中度のある表現をしていた
のに対し、下世話な突っ込みを入れる人間が出た時点で
わたしは授業を中断した。
立ち上がり、教室の扉を開け、まるで子供部屋に入るように外に出た。

このとき、17年間やってきたわたしの俳優養成は終わったのである。

2011年10月16日日曜日

「コクリコ坂から」を見て

昔、日本映画では「母ものシリーズ」というものがあって、ハンカチ持参でご来場くださいとの宣伝文句があったように、ある意味見て泣くための映画だった。

自分にとって同じようなものがジブリだ。ジブリはいつも泣くために見る。が、今回の「コクリコ坂から」は泣くことが出来なかった。「コクリコ坂から」は確かに良くできた映画ではあるが、アニメだけができる何か突き抜けたパワーが感じられなかった。もちろん、すべてのアニメにそのようなパワーが必要だとは思わない。だが、1960年代の日本を懐かしむ「三丁目の夕日」的なものは個人的にあまり好きではない。

自分が生まれたあの時代、日本人は確かに真面目に健気に頑張って働いて生きていた。だが、それをいま全面的に肯定する事は、自分には出来ない。あの当時の日本人の頑張りが最終的に何を作ったのか?それについては、もう多くを語りたくはないが、結果的には効率優先の原発社会を作ったのではないか。

ジブリが好きだったのは、アニメにしか表現しえない日常を超越した世界と、自然に対する畏怖と共存があり、それを見ていると何だか泣けてきてしまうのだったが、今回はそういったものはなかった。なんだか狭くなった感じがした。さらには1960年代にだって嫌な奴は沢山いたし、分かりやすい悪人は今より多くいた。それを昔の人はみんないい人のような「三丁目の夕日」的回顧ドラマは、今の日本の悲惨さから目を背けさせるためのアイテムのように感じてしまう。もちろん、製作者側にそんな意図はないと思うのだが、日本の過去を肯定することは現状を容認することにも繋がると思う。日本人は常に過去に対してはあまいのだ。あの時代から原発開発の火ぶたが切られたことを忘れてはいけない。

2011年10月8日土曜日

考える足

膝痛をここ10年患っていた。
整形外科に行っても軟骨が減っているため
完治することは出来ないと言われた。
太腿の筋肉を鍛えることで痛みを軽減できると
いうので運動療法もやったが効果はなかった。

足につねに痛みがあると
歩くということに意識的になる。
歩き方にこだわる。
どうすれば痛くなく歩けるか
膝に負担のない歩き方はないだろうか。

あるとき摺足をしたら、まったく足に痛みがなかった。
腰をきめて、膝を曲げて、股関節からの動きで水平移動する。
しかし、日常でこの歩きをしていたら
かなり変な人だ。
さらに平面ではいいが、階段は登れない。

さまざまな歩き方を工夫したが
完全に痛みをクリアできる歩き方は見つからなかった。

ところが先日、
気まぐれで山のお寺に体験修行に行き
三礼という呪文を唱えながらひたすら起立平伏を繰り返す
膝にめちゃくちゃ負担のある修行を150セットやらされたところ
当初は山を降りれないくらい足が痛かったが
翌日、まったく膝の痛みが消えてしまった。
階段を登り降りしても、膝を過激に動かしても
ぜんぜん痛みがない。
これは何なのだ。
霊力か・・・

そして今でも膝の痛みは消えたままだ。
原因は分からない。
今度、またその寺に行って住職に
なぜ治ったのか聞いてみようかと思う。

だが、足の痛みがなくなると
足について考える時間もなくなった気がする。
考える足がなくなった。
だけど劇団の稽古メニューには
三礼が入る日も近いだろう。
「おん、さらば、たたぎゃた、はなまんな、のうきゃろみ」と
いう呪文も発声練習にはいいかもしれない。

2011年9月24日土曜日

手は口ほどにモノを言い

ときどき、手がまったくダメな役者がいる。
演じているときの手が、生きていない。
手の動き、手の形、手の表情。

相手役に触れる手。
虚空に差し出す手。
自らを包み込む手。

劇のなか、演じる手が生きてこない。

そんなとき、稽古場では
「手に思想がないんだよ」とダメを出すが
手がダメな役者を変えるのは難しい。

人間のカラダの中で
目に次いで思考が露出するのは手である。
人類の進化の過程で
もっとも変化した部分が手と脳だ。
人間を人間たらしめているのは手である。

ただ、うるさい手は、劇の邪魔にもなったりする。
説明的な手、ありきたりな手、センスのない手。
歴史的に一番うるさかったのは
演説時のヒトラーの手。
あれは、他者を押さえつける手。
追いつめる手。
阻む手。

でも、手の形ひとつで
天地の理念をあらわすことも出来る。
仏教、陰陽道における印である。
シンボルを超えた宇宙的表現。

このさき100年後、
人間の言葉は、確実に変わっていくと思うが
人間の手はどうなっていくだろう。

手は寡黙になっていくか。
手は雄弁になっていくか。

いずれにしても
世界に向かって、開かれた手であってほしい。
他者に対して、開かれた手。
そして、多くのものを摘み取れる手。
パレスチナの国連加盟申請を見て
そんな思いを強くした。

2011年9月18日日曜日

演出家の目

このところ、街ゆく人びとの姿を
よく見ている。
いろんな人たちがいる。
その人たちが、一体どんな人間なのかを
見ながら、想像している。

身体の特徴、歩きかた、しぐさ、表情から
その人が、どこに向かっているのか
その人が、どんな状況なのか
その人が、なにを求めているのかを
ひたすら、ひたすら
見えてくることから、想像する。

気づいたら、これは演出家の目線だ。

創造の場から離れていても
人間をいつもそんな目線で見てしまう
悲しいさがではあるが
楽しんでいるのも事実です。

そして、ひとつ思ったこと。
日本人に、いま携帯電話がなくなったら
一体どうなるのだろう。
街ゆく人びとの多い場合は半分くらいが
携帯を操作している。
人間の歴史のなかで
歩きながら、こんなにも道具を使っていた時代が
果たしてあっただろうか。

これが進化なのか、退化なのか、分からないが
携帯をちょっとしまって、まわりの世界に目を広げると
秋の気配が感じられたりもするのです。

2011年9月14日水曜日

演出家は耳

以前、利賀フェスティバル参加公演でのこと。
予定していた音響家が事故でNGになり、急遽代わりの人にオペを
やってもらった。
野外での公演だったが、このときの音響が最悪だった。
つねにレベルが大きすぎるか、小さすぎるか。
曲のあたまでポンと聞かせて、あとは役者の台詞の背景にスーッと
入っていくような音だしがまったく出来なかった。
場当たりで何回かダメを出すと、
「蝉の鳴き声がうるさくてボリュームが分からない」という。
言い訳をいうスタッフは最悪だが、この人は音響なのに自分の耳を
持っていないなと感じた。

ところで演出家は耳である。
演出家の耳とは何か?

それは鮮度のいい耳である。
稽古場で、同じ台詞を何回聞いても、同じ音楽を何回聴いても
つねに初めて聞くような鮮度をもった耳。
慣れない耳、忘れられる耳、孤高の耳。

耳のダメな演出家は台詞を聞くことが出来ない。
台詞を聞くというのは、単に発音の良し悪しを判断したりすることでは
なく、役が台詞を語っているか、台詞が役を生きているかということ。

自分で本を書いて演出をやっている人は、
往々にして耳の幅がせまい。
それは自分から出た言葉を役者に語らせているからで
自分というフィルターを通して、耳がせまくなっている。
これはきっと演出家の耳ではなくて、作家の耳ということなのだろう。