2014年3月29日土曜日

朝倉さんの思い出


遠くに行ってしまったんですね。

そちらの世界はどうですか。

やはりなかなか面白い芝居はありませんか。

 

アトリエを訪れるといつも芝居の話になった。
最近みた芝居について歯に衣着せぬ感想を聞いた。
最後にお会いしたとき芝居の話は出なかった。
体調があまり優れない感じだった。
それから10ヶ月・・・先生は遠いところに旅立った。
そっちではどうですか?面白い芝居はありますか?
きっと先生の好きだった名優たちと演劇談義に
花を咲かせていることでしょう。

朝倉さんとはじめてお会いしたのは20代前半。
PARCOパート3で上演されたアラバールの「大典礼」で
舞台スタッフをやっていたときのことだった。
アトリエでデッサンを広げながらイメージについて
語る言葉が印象的だった。

それから10年以上たって、池の下を結成した。
そして寺山修司の連続上演をはじめたとき、一度で
いいから朝倉さんに美術をやってもらいたいと思った。
全くの無名劇団にも関わらず無謀にも電話したのだった。
断られることを覚悟していたが、一度会って話を聞きたい
と言われた。数日後、緊張しながらアトリエへの坂道を登った。
上演する予定の芝居について1時間くらい話した。
やりましょうとの言葉に一緒に行った劇団員と喜んだことを
覚えている。それから15本の芝居で舞台美術を担当してもらった。
打ち合わせのたびにイメージが広がって、小劇団ではとても
出来ないプランになったこともあったが、劇団の事情も
よく理解してくれて、舞台の実現化のための様々な方法も
考えていただいた。演劇の舞台ではなかなか使わないような
素材も斬新に用いて、既成概念を打ち破るような美術がいくつも
出来上がった。

劇団のトラブルで決まっていた公演が中止になり、
活動が休止したときは、心配して自宅近くの居酒屋に
呼んでいただき、劇団活動について色々アドバイスをしてもらった。
そのときに、どんな障害があっても劇団を解散しないと約束した。
そうして18年間、池の下は活動を続けてきた。

朝倉さん・・・あなたはいつも少女のように好奇心旺盛で、
何事にも偏見をもたず、こんな弱小劇団にも本気で
つき合ってくれました。本当に本当にありがとうございました。

この先は池の下が何らかの芸術活動を続けていくことが、
せめてもの恩返しだと思って、天国の先生に見せることが
出来るものを創って行きたいと思っています。
朝倉先生、長いことお疲れ様でした。

2014年3月11日火曜日

これでいいのだ


あれから3年たった。

あのときから何かが変わった。

それは日常のすべてに影を落としている。

 

赤塚不二夫の『天才バカボン』でエピソードの最後に
パパが「これでいいのだ」とよく言うが、いまの日本で
「これでいいのだ」と心の底から言うことは難しい。

あの前とあの後では、演劇に対する考え方、感じ方も変わった。
あの後はしばらく何を作ったらいいか分からなかった。
いろいろ考えて迷い抜いたあげくに、至極シンプルな結論に至った。
それは、いまやる意味のある芝居をやろうということだった。
別段その前は意味のない芝居をやっていたわけではないが、
芝居を作る上での第一義がいまやる意味があるかということに
なったのだ。

それから2作品を上演した。
どちらもいまこの国でやる意味があると考えて作った芝居である。
その意味がどこまで観客に伝わったかは分からないが、
現在まさに起こっている事の不条理を劇の中に少しでも感じて
もらえたならば幸いである。

このさき池の下はどこへ行くのか、
なにを求め、なにを作り、なにを伝えていくのか。
これから池の下はたぶん演劇にはとどまらない表現活動に
足を進めることになるのではないかと思う。
演劇という枠を越えて、人間という存在の不条理を探り続けて、
そしていつの日にか「これでいいのだ」と言える世の中に
なることを願って、池の下は活動していくつもりである。

2014年3月2日日曜日

3月に思う

また3月が来た。

春のイメージは3年前から確実に変わった。
何かがはじまる季節から、何かが終わる季節に・・・
そして人々は事故を忘れて、原発はすべて再稼働されようとしている。
さらにこの災害を起こした国の首相が自ら恥ずかしげもなく、
放射能を撒き散らした原発を海外に売ろうとしている。

日本はあらゆる意味で終わろうとしている。