2012年12月31日月曜日

闇の力


久しぶりの池の下の公演が終った。
おかげさまで全回満員御礼。
新たなシリーズも順調にスタートした感じである。

そして一段落する間もなく
今度は寺山修司作品である。
私の大学時代の同期が主宰する青蛾館の企画で
寺山の初期一幕劇の「白夜」「狂人教育」「犬神」
3作品を連続上演する。その内の一作品を私が演出する。

演出するのは「犬神」。
池の下では1999年に中野のザ・ポケットで上演した。
その後、2006年に利賀演出家コンクールで野外上演。
賞して、翌年の利賀フェスティバルで再演した。

今回、あらたに初演の地であるポケットスクエアで
上演するのも、なんだか因縁めいているが、13年目の
「犬神」を新しいメンバーでどのように作り上げるか
今から楽しみである。

この奥深い日本の闇に結びついた芝居について
考えながら、ふと、ある小説の一節を思い出した。

「どうして神聖は闇を背景にしていなければならないのか」

大変に意味深い問いかけであり、宗教とか神話とか様々な
神秘に対する、真実が潜んでいるように思える。
闇に宿る神聖は、今の日本ではすでに失われているように
思えるが、もしかしたら日本という国を動かす大きな原動力
この闇の力ではないだろうか。

闇について空想を広げながら、今回の芝居では
そんな闇がきらめく一瞬が見せられたらと
思っている。

 

2012年12月2日日曜日

素晴らしきバカ色ダンス



もう随分と前のことになるが、舞踏にハマっていた。
大学そっちのけで大野一雄舞踏研究所に通い、
大駱駝艦の合宿に行ったり、
笠井叡のワークショップに参加したりしていた。
 
だから、世田谷パブリックシアターの『ハヤサスラヒメ』は
かなり気にはなっていた。
しかし、なぜか見ることを躊躇いチケットは買わなかった。
だが、今日が楽日だというのをTwitterで知って
発作的に行ってしまった。
 
公演を見て、まず感じたことは
土方巽という同じ原点をもった麿赤兒と笠井叡が
半世紀をへて、このようにシンカ発展したのかと
いうことだった。
しかし、結局はまた同じカラダというカラに戻っていく。
そんなことを考えながら見ていた。
 
舞台は、ミルククラウンのような白い踊り手の残像からはじまる。
やがてセンターの光の道にふたりの主役が対峙する。
狂ったように踊りまくる笠井叡に対して
ほとんど動かない麿赤兒
動と静。異種格闘技戦。
それぞれの式神たちの対決。
オイリュトミーの女官たちの前で、踊る麿赤兒に軽い眩暈を感じる。
 
第九の合唱の中で、異なるカラダはいつしか同一の動きを生み出す。
 
なかでも秀逸だったのは
チュチュをはいた笠井と、スカート姿の麿が見せる暗黒バレエ。
なんでこんなにバカらしく、なんでこんなに素敵なんだ。
これは、かつての土方巽と大野一雄の「バラ色ダンス」ならぬ
「バカ色ダンス」だ。
ともに69歳。
自分もまだまだ頑張らねばと思った。


2012年11月23日金曜日

なぜ上演するのか




いよいよ1年半ぶりの公演の稽古が始まった。
今回の上演作品は『エレベーターの鍵』である。
小説「悪童日記」で有名なアゴタ・クリストフが1977年に書いた
戯曲を、のちに本人がさらに手を加えて完成度を高めた作品である。
 
この作品を上演しようと考えたのは、今から1年以上の前のことだ。
これまで進めてきたプロジェクトとは異なった、演劇的な試みを
行いたいと思って上演を決めた。
 
上演が決まってから、さまざまな人たちから、
「アゴタ・クリストフが好きなのですね」と言われた。
そのような反応を聞くたびに違和感を覚えるのだが
演出家が、その作家の作品を上演するのは、
それがいま上演する意味があるかということと、
上演できる構造を持っているかということと、
演出家の考える上演に耐えられるかということが問題であって、
その作家を好きかどうかということはあまり関係ない。
むしろ敵対できるだけの強度を持っているかが問われる。
 
今回の『エレベーターの鍵』は、いまの日本で上演する意味のある
作品であり、上演できるだけの劇的構造を持っていて、演出プランの
実行に耐えられるだけの強度も兼ね備えたテキストであると思う。
池の下では、今後もさらに戦いがいのあるテキストを使って、
新たな演劇の可能性を探求していくつもりだ。


2012年6月20日水曜日

『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』を見て

若松孝二監督の『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』を見た。
井浦新が演じる三島由紀夫に最初は違和感があったが、
見ている内に何となくこれもありかと思えてきた。
実際の三島はもっと猥雑だったと思うが、行動に純化していく
過程を描くには、このくらいの誠実さがないとダメだろう。
しかし体はちょっと貧弱すぎる。あの腹を切ってもあまり
有難味がない。ともに切腹する森田必勝を演じる満島真之介の
ほうがいい。三島を決起にむかって強引に引っ張っていくところに
説得力があった。

しかし、思うに三島が今の日本に生きていたら、
現在のわが国の状況をどう思うだろう。
故郷の山河を壊滅させた原発事故に対して誰も責任をとらず、
きちんとした原因究明もなされぬままに、
きわめて政治的な思惑で原発再稼働が決められていく、
この日本に対して吐く言葉はあるだろうか。
もしかしたら三島は、あの時代で死んで
幸せだったのかもしれない。
日本人が、まだ行動によって世の中を変えられると、
はかなくも夢みていたあの共同幻想の時代に。

2012年4月19日木曜日

「ピナ・バウシュ 夢の教室」を見て

ダンス経験のない10代の若者たちが
ピナ・バウシュの「コンタクトホーフ」を踊るまでの
ドキュメンタリー映画を見た。

ピナ・バウシュのダンスは
あくまでヴッパタール舞踊団のダンサーの身体から
作られたもので、その動きを10代の若者たちが再現する
意味が果たしてあるのかとはじめは思っていた。

だが、意味は充分にあった。
ピナのダンスは、自分の舞踊団のダンサーたちへの
果てしない質問と答えの結果、立ち現れた動きだ。
それは、ダンサーの内面から抽出されたものだが
最終的には人間の本質的なところに分け入っていく。
そして、その動きは人間の普遍性に繋がっていく。

はじめは意味も分からず
与えられた動きをただそのままにやっていた若者たちが
次第に、そこに何かを感じて、自分のなかにあるものを発見する。
これは彼らだから見つけられたものであり
その時点でこれはすでに彼らの表現なのだ。

若いときにだけ見えるものもある。
そして、年老いてからはじめて見えるものもある。
この「コンタクトホーフ」は65歳以上の演者で
上演されたこともあった。

真の動きはやはり
時分の花を開かせるのだろう。

2012年3月11日日曜日

3.11 東京の片隅で

1年たった今日、多くの人がその思いを書くだろう。

東北で被災した人たちに比べたら
東京で暮らす私の1年目の思いなんて小さなものかもしれない。

それでもやはり書こうと思ったのは
あのときほど芝居をやることの意味というものを考えたことは
なかったからだ。

2011年3月11日14時46分。
あのとき、私は王子にある劇場の調光卓の前にいた。
強い衝撃の後に、平台を組んだ調光ブースは激しく揺れた。
劇場全体がミシミシと音を立てる。
このまま崩れるかと思い、一緒にいた劇場スタッフと
建物の外に逃げた。
揺れはまだ続いている。
電柱が大きく揺れ、向かいの3階建の住居もうねるように揺れる。
しばらくして揺れは収まり、劇場内を点検してから
仕事を終えた。

夜は、3日後に小屋入りをひかえた公演の稽古があるので
水天宮の稽古場に向かおうとしたが、電車がすべて止まっている。
王子駅前は人であふれている。
都営バスだけが動いていたので、満員のバスにかろうじて乗り込み
池袋まで向かったが、このさきも交通機関はすべて止まっていた。
これはもう駄目だと思い、今日の稽古は中止とのメールを制作に打つ
が携帯がまったく通じない。

とりあえず新宿まで出ればどうにかなるかと思い、明治通りをひたすら
歩いた。その時は、すでに1車線分が帰宅者の行列でつぶれていた。
1時間ほど歩いて新宿についたが、交通機関はまだ回復していない。
ファーストフードなども閉まっている。仕方がないので電車が動くまでと
思って、ゴールデン街の行きつけの店に行くと、2階にある店内は
ボトルが散乱し、スピーカーは落下し、足の踏み場もない状態の中、
ママが呆然と立ちつくしている。このままではどうにもならないので
割れたボトルを処分し、スピーカーを据え付け直して、1時間くらいで
何とか片づけ終わり、無事だったビールを飲ましてもらった。
その後、帰宅難民者の客が何人か来たが
12時過ぎに都営新宿線が動き始めたという情報が入ったので駅に
向かう。超満員の地下鉄で、ひと駅ごとに15分近く停車して、
ようやく2時過ぎに帰宅。

31階の団地の部屋は、廊下の本棚がすべて倒れている。
本棚と格闘して、本の山を乗り越えて、自室に行くまで15分以上
かかった。作業デスクは倒れ、パソコンが落下している。
チケット予約状況などすべてがパソコンに入っているので、
1時間近くかけて復旧。
メールを見ると、稽古場の水天宮ピットから、地震の安全確認のため
明日と明後日は使用中止になるとの告知。
このままでは明日から2日間の集中稽古が出来なくなる。
どうしようか迷い、時計を見ると午前3時半過ぎていたが、
ダメもとで公演を行うd-倉庫に電話をする。
何回かのコールの後、小屋つきさんが出て、事情を話し、
2日間稽古場として劇場をおさえた。
散乱する荷物の中を、明日からの稽古のための資料を用意して
気づいたら午前6時。朝になっていた。

その後、2日間の最終稽古は劇場で出来て、
怪我の功名などと言っていたが
原発事故の影響による計画停電で、公演初日まで本番が
できるか分からない状態だった。
劇場のある荒川区は停電地域に入っていたが、
地区が分かれているみたいで、どの地区が停電になるのか、
東電のホームページで調べようとしたがアクセスできない状態が
続いた。

さらに連日、チケットキャンセルの電話がかかってきた。
実家と連絡がとれない役者もいた。
こんな状況の時に芝居をやるのかという抗議のメールも届いた。
しかし、公演中止にはしなかった。
キャンセルはあるが、まだ公演を見ようとしている観客が
3百人以上いる。
舞台監督と打ち合わせて、地震時の避難対策は万全にした。
幸いd-倉庫は下手の鉄扉を全開すると、そのまま1階の駐車場に
出られる。舞監が誘導し、客席最後方にいる自分が最後に小屋を
出るつもりだった。
観客の入場前にも制作から、地震の時の避難説明があった。

だが実際に公演3日目、本番の10分前に震度3の地震があった。
舞台監督がすぐに客席前方に立ち
「ただいま茨城県沖を震源とする地震がありました。震度は3でした。
続行します」
とアナウンスをした。

その後は公演中の地震もなく、計画停電も指定地区からは外れて、
どうにか最終日まで公演を無事に終わらせることができた。

公演が終わり、考えた。
なんとか公演を成立させようと必死でやってきたが
この公演をやる意味は何だったのだろう。
そんなことはこれまで16年間劇団をやってきたが
考えたこともなかった。

演劇をやる意味。
それは表現したいことがあって
それを見たいという観客がいるということ。

それだけか。
それだけでいいのか。
それだけで本当にいいのか。
考えた。
そして劇団を一時休止して
さらに考えることにした。

1年間、考えた。

そろそろ結果を出したいと思っている。

2012年3月2日金曜日

生きる意味

このところ、連続して暗い映画を見ている。
「無言歌」と「ニーチェの馬」である。
ともに、絶望的な状況下での人間を描いている。

王兵監督「無言歌」の舞台は、1960年代の中国西部
ゴビ砂漠の収容所。右派と見なされた政治犯たちが
まともな食料もない中で、強制労働をさせられている。
飢えを凌ぐために、ネズミを食べたり、有毒だと分かって
いる植物を食べたりする。
つぎつぎと死んでいく人たち。
だが、その死体も無事ではない。生きのびようとする人たちに
食われていく。極限状況でも、生きつづけようとする人間たち。
救いはない。だが、人間は生きている。そんな映画だった。
暗いが、砂漠などの映像は素晴らしく美しい。
悲惨だが、美しいから見入ってしまう、そんな魔力をもった映画だった。

そして、昨日みたタル・ベーラ監督「ニーチェの馬」。
ひたすら強風の吹きつづける荒れた大地に棲む
父と娘の6日間の物語。
父は、半身不随で服の脱着にも、娘の手をかりなければならない。
唯一の収入源であった荷馬車の仕事は、老いた馬が荷台を
引けなくなり出来なくなってしまった。
毎日毎日、一個の馬鈴薯のみの食事。
井戸は涸れて、やがて光も失われる。
ここで描かれているのは、神が死んだのちの聖家族の生活だ。
それをモノクロの長回しで延々と見せていく。
宗教画のような神々しさをもった映像美だった。

絶望の果てでも、人間は生きつづける。
なぜだ?
なぜなのだ?
そんな疑問が私をとらえる。
そして、それは、人間はなぜ生きるのかということに至る。

人間が生きる意味。
分からない。
分からないが、人間は生きていかなければならない。

「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、
なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・・・・それがわかったら、それがわたったらね!」

この台詞が書かれてから100年以上たつが
それはいまだに謎である。

2012年2月24日金曜日

生かされる言葉

忘れられない思い出がある。

まだ、自分が20代の頃、
大野一雄舞踏研究所に通っていた。
世の中は、小劇場ブーム真っ盛りで、演劇の世界に違和感を感じて
しばらく遠ざかっていた時のことである。

その日は、水曜日だったと思う。
いつものように横浜市上星川の坂道を登り、研究所についた。
だが、大野先生の自宅の横にある稽古場には
誰もおらず、自宅を訪ねてみると、今日は先生が風邪気味なので
稽古はお休みですと家の人から言われた。
そのとき、奥から大野先生が現れて
「いいから、ちょっと中に入りなさい」と言われ
自室に通してくださった。
そして、少し狭めの和室で海外公演のビデオを見ながら、
いろいろと話をしてくれた。
舞踏について、素材について、稽古について
そして、話の中で
「空なるものは満たされている」ということを言われ
しばらく沈黙が続いた。
私は先生の目を見て、先生は私を見ていた。
1時間くらいお話を聞いてから失礼したが
帰り道、坂を下りながら考えた。

空っぽのものは、ほんとうは満たされている・・・
これは一体どういったことだろう。
しばらく考えたが、そのときの自分はそれがよく分からなかった。

先日、10年ぶりに大野先生の「舞踏譜」を読み返していて
あらためて、あの時の先生の言葉を思い出した。
そして、愕然とした。

「空なるもので満たされた演劇」
それこそが、これまで演劇をやり続けてきて
ようやく行きついた結論であり、
あのときの先生の言葉は、20数年後の予言だったと。

私をじっと見つめる先生のまなざしによって
いまも私は生かされている。