ダンス経験のない10代の若者たちが
ピナ・バウシュの「コンタクトホーフ」を踊るまでの
ドキュメンタリー映画を見た。
ピナ・バウシュのダンスは
あくまでヴッパタール舞踊団のダンサーの身体から
作られたもので、その動きを10代の若者たちが再現する
意味が果たしてあるのかとはじめは思っていた。
だが、意味は充分にあった。
ピナのダンスは、自分の舞踊団のダンサーたちへの
果てしない質問と答えの結果、立ち現れた動きだ。
それは、ダンサーの内面から抽出されたものだが
最終的には人間の本質的なところに分け入っていく。
そして、その動きは人間の普遍性に繋がっていく。
はじめは意味も分からず
与えられた動きをただそのままにやっていた若者たちが
次第に、そこに何かを感じて、自分のなかにあるものを発見する。
これは彼らだから見つけられたものであり
その時点でこれはすでに彼らの表現なのだ。
若いときにだけ見えるものもある。
そして、年老いてからはじめて見えるものもある。
この「コンタクトホーフ」は65歳以上の演者で
上演されたこともあった。
真の動きはやはり
時分の花を開かせるのだろう。
演出の隠れ家
2012年4月19日木曜日
2012年3月11日日曜日
3.11 東京の片隅で
1年たった今日、多くの人がその思いを書くだろう。
東北で被災した人たちに比べたら
東京で暮らす私の1年目の思いなんて小さなものかもしれない。
それでもやはり書こうと思ったのは
あのときほど芝居をやることの意味というものを考えたことは
なかったからだ。
2011年3月11日14時46分。
あのとき、私は王子にある劇場の調光卓の前にいた。
強い衝撃の後に、平台を組んだ調光ブースは激しく揺れた。
劇場全体がミシミシと音を立てる。
このまま崩れるかと思い、一緒にいた劇場スタッフと
建物の外に逃げた。
揺れはまだ続いている。
電柱が大きく揺れ、向かいの3階建の住居もうねるように揺れる。
しばらくして揺れは収まり、劇場内を点検してから
仕事を終えた。
夜は、3日後に小屋入りをひかえた公演の稽古があるので
水天宮の稽古場に向かおうとしたが、電車がすべて止まっている。
王子駅前は人であふれている。
都営バスだけが動いていたので、満員のバスにかろうじて乗り込み
池袋まで向かったが、このさきも交通機関はすべて止まっていた。
これはもう駄目だと思い、今日の稽古は中止とのメールを制作に打つ
が携帯がまったく通じない。
とりあえず新宿まで出ればどうにかなるかと思い、明治通りをひたすら
歩いた。その時は、すでに1車線分が帰宅者の行列でつぶれていた。
1時間ほど歩いて新宿についたが、交通機関はまだ回復していない。
ファーストフードなども閉まっている。仕方がないので電車が動くまでと
思って、ゴールデン街の行きつけの店に行くと、2階にある店内は
ボトルが散乱し、スピーカーは落下し、足の踏み場もない状態の中、
ママが呆然と立ちつくしている。このままではどうにもならないので
割れたボトルを処分し、スピーカーを据え付け直して、1時間くらいで
何とか片づけ終わり、無事だったビールを飲ましてもらった。
その後、帰宅難民者の客が何人か来たが
12時過ぎに都営新宿線が動き始めたという情報が入ったので駅に
向かう。超満員の地下鉄で、ひと駅ごとに15分近く停車して、
ようやく2時過ぎに帰宅。
31階の団地の部屋は、廊下の本棚がすべて倒れている。
本棚と格闘して、本の山を乗り越えて、自室に行くまで15分以上
かかった。作業デスクは倒れ、パソコンが落下している。
チケット予約状況などすべてがパソコンに入っているので、
1時間近くかけて復旧。
メールを見ると、稽古場の水天宮ピットから、地震の安全確認のため
明日と明後日は使用中止になるとの告知。
このままでは明日から2日間の集中稽古が出来なくなる。
どうしようか迷い、時計を見ると午前3時半過ぎていたが、
ダメもとで公演を行うd-倉庫に電話をする。
何回かのコールの後、小屋つきさんが出て、事情を話し、
2日間稽古場として劇場をおさえた。
散乱する荷物の中を、明日からの稽古のための資料を用意して
気づいたら午前6時。朝になっていた。
その後、2日間の最終稽古は劇場で出来て、
怪我の功名などと言っていたが
原発事故の影響による計画停電で、公演初日まで本番が
できるか分からない状態だった。
劇場のある荒川区は停電地域に入っていたが、
地区が分かれているみたいで、どの地区が停電になるのか、
東電のホームページで調べようとしたがアクセスできない状態が
続いた。
さらに連日、チケットキャンセルの電話がかかってきた。
実家と連絡がとれない役者もいた。
こんな状況の時に芝居をやるのかという抗議のメールも届いた。
しかし、公演中止にはしなかった。
キャンセルはあるが、まだ公演を見ようとしている観客が
3百人以上いる。
舞台監督と打ち合わせて、地震時の避難対策は万全にした。
幸いd-倉庫は下手の鉄扉を全開すると、そのまま1階の駐車場に
出られる。舞監が誘導し、客席最後方にいる自分が最後に小屋を
出るつもりだった。
観客の入場前にも制作から、地震の時の避難説明があった。
だが実際に公演3日目、本番の10分前に震度3の地震があった。
舞台監督がすぐに客席前方に立ち
「ただいま茨城県沖を震源とする地震がありました。震度は3でした。
続行します」
とアナウンスをした。
その後は公演中の地震もなく、計画停電も指定地区からは外れて、
どうにか最終日まで公演を無事に終わらせることができた。
公演が終わり、考えた。
なんとか公演を成立させようと必死でやってきたが
この公演をやる意味は何だったのだろう。
そんなことはこれまで16年間劇団をやってきたが
考えたこともなかった。
演劇をやる意味。
それは表現したいことがあって
それを見たいという観客がいるということ。
それだけか。
それだけでいいのか。
それだけで本当にいいのか。
考えた。
そして劇団を一時休止して
さらに考えることにした。
1年間、考えた。
そろそろ結果を出したいと思っている。
東北で被災した人たちに比べたら
東京で暮らす私の1年目の思いなんて小さなものかもしれない。
それでもやはり書こうと思ったのは
あのときほど芝居をやることの意味というものを考えたことは
なかったからだ。
2011年3月11日14時46分。
あのとき、私は王子にある劇場の調光卓の前にいた。
強い衝撃の後に、平台を組んだ調光ブースは激しく揺れた。
劇場全体がミシミシと音を立てる。
このまま崩れるかと思い、一緒にいた劇場スタッフと
建物の外に逃げた。
揺れはまだ続いている。
電柱が大きく揺れ、向かいの3階建の住居もうねるように揺れる。
しばらくして揺れは収まり、劇場内を点検してから
仕事を終えた。
夜は、3日後に小屋入りをひかえた公演の稽古があるので
水天宮の稽古場に向かおうとしたが、電車がすべて止まっている。
王子駅前は人であふれている。
都営バスだけが動いていたので、満員のバスにかろうじて乗り込み
池袋まで向かったが、このさきも交通機関はすべて止まっていた。
これはもう駄目だと思い、今日の稽古は中止とのメールを制作に打つ
が携帯がまったく通じない。
とりあえず新宿まで出ればどうにかなるかと思い、明治通りをひたすら
歩いた。その時は、すでに1車線分が帰宅者の行列でつぶれていた。
1時間ほど歩いて新宿についたが、交通機関はまだ回復していない。
ファーストフードなども閉まっている。仕方がないので電車が動くまでと
思って、ゴールデン街の行きつけの店に行くと、2階にある店内は
ボトルが散乱し、スピーカーは落下し、足の踏み場もない状態の中、
ママが呆然と立ちつくしている。このままではどうにもならないので
割れたボトルを処分し、スピーカーを据え付け直して、1時間くらいで
何とか片づけ終わり、無事だったビールを飲ましてもらった。
その後、帰宅難民者の客が何人か来たが
12時過ぎに都営新宿線が動き始めたという情報が入ったので駅に
向かう。超満員の地下鉄で、ひと駅ごとに15分近く停車して、
ようやく2時過ぎに帰宅。
31階の団地の部屋は、廊下の本棚がすべて倒れている。
本棚と格闘して、本の山を乗り越えて、自室に行くまで15分以上
かかった。作業デスクは倒れ、パソコンが落下している。
チケット予約状況などすべてがパソコンに入っているので、
1時間近くかけて復旧。
メールを見ると、稽古場の水天宮ピットから、地震の安全確認のため
明日と明後日は使用中止になるとの告知。
このままでは明日から2日間の集中稽古が出来なくなる。
どうしようか迷い、時計を見ると午前3時半過ぎていたが、
ダメもとで公演を行うd-倉庫に電話をする。
何回かのコールの後、小屋つきさんが出て、事情を話し、
2日間稽古場として劇場をおさえた。
散乱する荷物の中を、明日からの稽古のための資料を用意して
気づいたら午前6時。朝になっていた。
その後、2日間の最終稽古は劇場で出来て、
怪我の功名などと言っていたが
原発事故の影響による計画停電で、公演初日まで本番が
できるか分からない状態だった。
劇場のある荒川区は停電地域に入っていたが、
地区が分かれているみたいで、どの地区が停電になるのか、
東電のホームページで調べようとしたがアクセスできない状態が
続いた。
さらに連日、チケットキャンセルの電話がかかってきた。
実家と連絡がとれない役者もいた。
こんな状況の時に芝居をやるのかという抗議のメールも届いた。
しかし、公演中止にはしなかった。
キャンセルはあるが、まだ公演を見ようとしている観客が
3百人以上いる。
舞台監督と打ち合わせて、地震時の避難対策は万全にした。
幸いd-倉庫は下手の鉄扉を全開すると、そのまま1階の駐車場に
出られる。舞監が誘導し、客席最後方にいる自分が最後に小屋を
出るつもりだった。
観客の入場前にも制作から、地震の時の避難説明があった。
だが実際に公演3日目、本番の10分前に震度3の地震があった。
舞台監督がすぐに客席前方に立ち
「ただいま茨城県沖を震源とする地震がありました。震度は3でした。
続行します」
とアナウンスをした。
その後は公演中の地震もなく、計画停電も指定地区からは外れて、
どうにか最終日まで公演を無事に終わらせることができた。
公演が終わり、考えた。
なんとか公演を成立させようと必死でやってきたが
この公演をやる意味は何だったのだろう。
そんなことはこれまで16年間劇団をやってきたが
考えたこともなかった。
演劇をやる意味。
それは表現したいことがあって
それを見たいという観客がいるということ。
それだけか。
それだけでいいのか。
それだけで本当にいいのか。
考えた。
そして劇団を一時休止して
さらに考えることにした。
1年間、考えた。
そろそろ結果を出したいと思っている。
2012年3月2日金曜日
生きる意味
このところ、連続して暗い映画を見ている。
「無言歌」と「ニーチェの馬」である。
ともに、絶望的な状況下での人間を描いている。
王兵監督「無言歌」の舞台は、1960年代の中国西部
ゴビ砂漠の収容所。右派と見なされた政治犯たちが
まともな食料もない中で、強制労働をさせられている。
飢えを凌ぐために、ネズミを食べたり、有毒だと分かって
いる植物を食べたりする。
つぎつぎと死んでいく人たち。
だが、その死体も無事ではない。生きのびようとする人たちに
食われていく。極限状況でも、生きつづけようとする人間たち。
救いはない。だが、人間は生きている。そんな映画だった。
暗いが、砂漠などの映像は素晴らしく美しい。
悲惨だが、美しいから見入ってしまう、そんな魔力をもった映画だった。
そして、昨日みたタル・ベーラ監督「ニーチェの馬」。
ひたすら強風の吹きつづける荒れた大地に棲む
父と娘の6日間の物語。
父は、半身不随で服の脱着にも、娘の手をかりなければならない。
唯一の収入源であった荷馬車の仕事は、老いた馬が荷台を
引けなくなり出来なくなってしまった。
毎日毎日、一個の馬鈴薯のみの食事。
井戸は涸れて、やがて光も失われる。
ここで描かれているのは、神が死んだのちの聖家族の生活だ。
それをモノクロの長回しで延々と見せていく。
宗教画のような神々しさをもった映像美だった。
絶望の果てでも、人間は生きつづける。
なぜだ?
なぜなのだ?
そんな疑問が私をとらえる。
そして、それは、人間はなぜ生きるのかということに至る。
人間が生きる意味。
分からない。
分からないが、人間は生きていかなければならない。
「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、
なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・・・・それがわかったら、それがわたったらね!」
この台詞が書かれてから100年以上たつが
それはいまだに謎である。
「無言歌」と「ニーチェの馬」である。
ともに、絶望的な状況下での人間を描いている。
王兵監督「無言歌」の舞台は、1960年代の中国西部
ゴビ砂漠の収容所。右派と見なされた政治犯たちが
まともな食料もない中で、強制労働をさせられている。
飢えを凌ぐために、ネズミを食べたり、有毒だと分かって
いる植物を食べたりする。
つぎつぎと死んでいく人たち。
だが、その死体も無事ではない。生きのびようとする人たちに
食われていく。極限状況でも、生きつづけようとする人間たち。
救いはない。だが、人間は生きている。そんな映画だった。
暗いが、砂漠などの映像は素晴らしく美しい。
悲惨だが、美しいから見入ってしまう、そんな魔力をもった映画だった。
そして、昨日みたタル・ベーラ監督「ニーチェの馬」。
ひたすら強風の吹きつづける荒れた大地に棲む
父と娘の6日間の物語。
父は、半身不随で服の脱着にも、娘の手をかりなければならない。
唯一の収入源であった荷馬車の仕事は、老いた馬が荷台を
引けなくなり出来なくなってしまった。
毎日毎日、一個の馬鈴薯のみの食事。
井戸は涸れて、やがて光も失われる。
ここで描かれているのは、神が死んだのちの聖家族の生活だ。
それをモノクロの長回しで延々と見せていく。
宗教画のような神々しさをもった映像美だった。
絶望の果てでも、人間は生きつづける。
なぜだ?
なぜなのだ?
そんな疑問が私をとらえる。
そして、それは、人間はなぜ生きるのかということに至る。
人間が生きる意味。
分からない。
分からないが、人間は生きていかなければならない。
「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、
なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・・・・それがわかったら、それがわたったらね!」
この台詞が書かれてから100年以上たつが
それはいまだに謎である。
2012年2月24日金曜日
生かされる言葉
忘れられない思い出がある。
まだ、自分が20代の頃、
大野一雄舞踏研究所に通っていた。
世の中は、小劇場ブーム真っ盛りで、演劇の世界に違和感を感じて
しばらく遠ざかっていた時のことである。
その日は、水曜日だったと思う。
いつものように横浜市上星川の坂道を登り、研究所についた。
だが、大野先生の自宅の横にある稽古場には
誰もおらず、自宅を訪ねてみると、今日は先生が風邪気味なので
稽古はお休みですと家の人から言われた。
そのとき、奥から大野先生が現れて
「いいから、ちょっと中に入りなさい」と言われ
自室に通してくださった。
そして、少し狭めの和室で海外公演のビデオを見ながら、
いろいろと話をしてくれた。
舞踏について、素材について、稽古について
そして、話の中で
「空なるものは満たされている」ということを言われ
しばらく沈黙が続いた。
私は先生の目を見て、先生は私を見ていた。
1時間くらいお話を聞いてから失礼したが
帰り道、坂を下りながら考えた。
空っぽのものは、ほんとうは満たされている・・・
これは一体どういったことだろう。
しばらく考えたが、そのときの自分はそれがよく分からなかった。
先日、10年ぶりに大野先生の「舞踏譜」を読み返していて
あらためて、あの時の先生の言葉を思い出した。
そして、愕然とした。
「空なるもので満たされた演劇」
それこそが、これまで演劇をやり続けてきて
ようやく行きついた結論であり、
あのときの先生の言葉は、20数年後の予言だったと。
私をじっと見つめる先生のまなざしによって
いまも私は生かされている。
まだ、自分が20代の頃、
大野一雄舞踏研究所に通っていた。
世の中は、小劇場ブーム真っ盛りで、演劇の世界に違和感を感じて
しばらく遠ざかっていた時のことである。
その日は、水曜日だったと思う。
いつものように横浜市上星川の坂道を登り、研究所についた。
だが、大野先生の自宅の横にある稽古場には
誰もおらず、自宅を訪ねてみると、今日は先生が風邪気味なので
稽古はお休みですと家の人から言われた。
そのとき、奥から大野先生が現れて
「いいから、ちょっと中に入りなさい」と言われ
自室に通してくださった。
そして、少し狭めの和室で海外公演のビデオを見ながら、
いろいろと話をしてくれた。
舞踏について、素材について、稽古について
そして、話の中で
「空なるものは満たされている」ということを言われ
しばらく沈黙が続いた。
私は先生の目を見て、先生は私を見ていた。
1時間くらいお話を聞いてから失礼したが
帰り道、坂を下りながら考えた。
空っぽのものは、ほんとうは満たされている・・・
これは一体どういったことだろう。
しばらく考えたが、そのときの自分はそれがよく分からなかった。
先日、10年ぶりに大野先生の「舞踏譜」を読み返していて
あらためて、あの時の先生の言葉を思い出した。
そして、愕然とした。
「空なるもので満たされた演劇」
それこそが、これまで演劇をやり続けてきて
ようやく行きついた結論であり、
あのときの先生の言葉は、20数年後の予言だったと。
私をじっと見つめる先生のまなざしによって
いまも私は生かされている。
2011年12月15日木曜日
そして北へ
思い立って北に旅立った。
このような発作的な旅は、ここ20年ほどなかったが
今回は矢も盾もたまらずといった感じで
行ってしまった。
すべてから脱したい、そんな想いをもって。
新幹線で青森へ。さらに津軽線で三厩へ。
そうして最後は竜飛岬へ。ここが本州のどんづまり。
これより先は海に落ちるしかない。
高校生の頃から、ここには何度も足をはこんでいる。
何かに行きづまったとき、生きるのに迷ったとき
この北のはずれの海峡を見に来る。
自分にとってはひとつの聖地かもしれない。
激しい吹雪のなか、竜飛の灯台まで昇ると
荒海の先にかすかに北海道が見える。
飛翔するカモメのほかは誰もいない。
聞こえるのは風の音ばかり。
そんな中に雪をかぶった石碑があった。
以前、来たときはこんなものはなかったが
海を背景にした石碑の真ん中に赤いボタンがある。
なんだろうと思って、押すと
突然、「津軽海峡冬景色」の歌声が大音量で流れ出した。
石碑は、この演歌の歌碑だった。
石川さゆりには何の罪もないが
この荒々しい自然の風景のなかで
吹雪も、翔んでいるカモメも、海鳴りも
いっきにこのバチはまりのBGMを背負って
通俗の極みに転落した。
なんという異化効果だ。
感傷的な旅ごころに冷や水を浴びせてくれた。
しばし呆然としていたが
しかし、なんだろう
この大いなる裏切りの心地よさは?
あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。
笑ってしまったところで、私の旅は終わり
日常への切符を手にしたのである。
でも、やはり竜飛岬は変わらず私の聖地かもしれない。
また、思い悩んだら、まっすぐこの北のはずれの海峡に来て
「津軽海峡冬景色」を流して
カラオケのイメージ映像と化してしまった大自然を満喫したい。
このような発作的な旅は、ここ20年ほどなかったが
今回は矢も盾もたまらずといった感じで
行ってしまった。
すべてから脱したい、そんな想いをもって。
新幹線で青森へ。さらに津軽線で三厩へ。
そうして最後は竜飛岬へ。ここが本州のどんづまり。
これより先は海に落ちるしかない。
高校生の頃から、ここには何度も足をはこんでいる。
何かに行きづまったとき、生きるのに迷ったとき
この北のはずれの海峡を見に来る。
自分にとってはひとつの聖地かもしれない。
激しい吹雪のなか、竜飛の灯台まで昇ると
荒海の先にかすかに北海道が見える。
飛翔するカモメのほかは誰もいない。
聞こえるのは風の音ばかり。
そんな中に雪をかぶった石碑があった。
以前、来たときはこんなものはなかったが
海を背景にした石碑の真ん中に赤いボタンがある。
なんだろうと思って、押すと
突然、「津軽海峡冬景色」の歌声が大音量で流れ出した。
石碑は、この演歌の歌碑だった。
石川さゆりには何の罪もないが
この荒々しい自然の風景のなかで
吹雪も、翔んでいるカモメも、海鳴りも
いっきにこのバチはまりのBGMを背負って
通俗の極みに転落した。
なんという異化効果だ。
感傷的な旅ごころに冷や水を浴びせてくれた。
しばし呆然としていたが
しかし、なんだろう
この大いなる裏切りの心地よさは?
あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。
笑ってしまったところで、私の旅は終わり
日常への切符を手にしたのである。
でも、やはり竜飛岬は変わらず私の聖地かもしれない。
また、思い悩んだら、まっすぐこの北のはずれの海峡に来て
「津軽海峡冬景色」を流して
カラオケのイメージ映像と化してしまった大自然を満喫したい。
2011年11月6日日曜日
俳優養成は可能か
ジャック・ルコックのレッスン課題に「子供部屋」というものがある。
「長い旅路の末に自分が幼いときに過ごした子供部屋に戻ってくる。
昔のままのその部屋に入り、懐かしい家具や思い出の品々を見て
確認する。気がつくとベットの下に、おもちゃ箱がある。ひらくと
小さいころ遊んだおもちゃがたくさん入っている。ひとつひとつ
取り出して、遊んでみる。子供の頃を思い出して、だんだんと
遊びに夢中になり、次第に子供時代に戻ってしまう。
そして、遊びのテンションが頂点に達したとき、ふと気づく。
大人になってしまった自分に。
遊びをやめて、おもちゃを片づけ、部屋を出る。」
言葉を使わないレッスンである。
演じる人の感性が如実に現れる課題で
わたしはある意味で怖いレッスンだと思っている。
以前、この課題を山形の高校演劇の講習会でやったとき
高校生たちがやる遊びにアウトドアものが多いのに驚いたことが
あった。
東京の専門学校では、最近はおもちゃ箱からゲーム機を取り出して
遊び始める学生が出てきたりして、アクティブな表現が減ってきた。
その上、前の人がやった遊びを同じようにやる学生が出てきて
新たな表現が見られなくなり、この課題もそろそろ賞味期限が
過ぎて来たかと思った。
ところが、中国の上海戯劇学院の表演系(演劇専攻)の
1年生対象に2週間のワークショップをやったときに、この課題を
やったところ、めちゃくちゃ面白かった。
次から次へとエネルギッシュに遊びがいくつも出てくる。
思わず「ガラスの仮面」の北島マヤのオーディションを思い出して
しまった。
そして、遊びが絶好調のとき、ふと我に戻り、大人になってしまった
自分に気づき、部屋を出て行くところなどは、まるで映画の
ワンシーンを見るような素晴らしい表現があった。
このとき思ったのは、俳優養成は同じカリキュラムでもやる人間に
よって、まったく別物なってしまうということだ。
そして、今年2月にこの課題を再び専門学校でやったときのこと。
そのクラスは半分近くがお笑い志望だった。
彼らはとにかく笑いをとることだけを考えるので
結果としての笑いはいいが、まずはこの状況を生きるように言った。
しかし、結果は悲惨だった。
この繊細な課題が凌辱されるような受け狙いばかりが続いた。
さらには、俳優志望の女子学生がかなり集中度のある表現をしていた
のに対し、下世話な突っ込みを入れる人間が出た時点で
わたしは授業を中断した。
立ち上がり、教室の扉を開け、まるで子供部屋に入るように外に出た。
このとき、17年間やってきたわたしの俳優養成は終わったのである。
「長い旅路の末に自分が幼いときに過ごした子供部屋に戻ってくる。
昔のままのその部屋に入り、懐かしい家具や思い出の品々を見て
確認する。気がつくとベットの下に、おもちゃ箱がある。ひらくと
小さいころ遊んだおもちゃがたくさん入っている。ひとつひとつ
取り出して、遊んでみる。子供の頃を思い出して、だんだんと
遊びに夢中になり、次第に子供時代に戻ってしまう。
そして、遊びのテンションが頂点に達したとき、ふと気づく。
大人になってしまった自分に。
遊びをやめて、おもちゃを片づけ、部屋を出る。」
言葉を使わないレッスンである。
演じる人の感性が如実に現れる課題で
わたしはある意味で怖いレッスンだと思っている。
以前、この課題を山形の高校演劇の講習会でやったとき
高校生たちがやる遊びにアウトドアものが多いのに驚いたことが
あった。
東京の専門学校では、最近はおもちゃ箱からゲーム機を取り出して
遊び始める学生が出てきたりして、アクティブな表現が減ってきた。
その上、前の人がやった遊びを同じようにやる学生が出てきて
新たな表現が見られなくなり、この課題もそろそろ賞味期限が
過ぎて来たかと思った。
ところが、中国の上海戯劇学院の表演系(演劇専攻)の
1年生対象に2週間のワークショップをやったときに、この課題を
やったところ、めちゃくちゃ面白かった。
次から次へとエネルギッシュに遊びがいくつも出てくる。
思わず「ガラスの仮面」の北島マヤのオーディションを思い出して
しまった。
そして、遊びが絶好調のとき、ふと我に戻り、大人になってしまった
自分に気づき、部屋を出て行くところなどは、まるで映画の
ワンシーンを見るような素晴らしい表現があった。
このとき思ったのは、俳優養成は同じカリキュラムでもやる人間に
よって、まったく別物なってしまうということだ。
そして、今年2月にこの課題を再び専門学校でやったときのこと。
そのクラスは半分近くがお笑い志望だった。
彼らはとにかく笑いをとることだけを考えるので
結果としての笑いはいいが、まずはこの状況を生きるように言った。
しかし、結果は悲惨だった。
この繊細な課題が凌辱されるような受け狙いばかりが続いた。
さらには、俳優志望の女子学生がかなり集中度のある表現をしていた
のに対し、下世話な突っ込みを入れる人間が出た時点で
わたしは授業を中断した。
立ち上がり、教室の扉を開け、まるで子供部屋に入るように外に出た。
このとき、17年間やってきたわたしの俳優養成は終わったのである。
2011年10月16日日曜日
「コクリコ坂から」を見て
昔、日本映画では「母ものシリーズ」というものがあって、ハンカチ持参でご来場くださいとの宣伝文句があったように、ある意味見て泣くための映画だった。
自分にとって同じようなものがジブリだ。ジブリはいつも泣くために見る。が、今回の「コクリコ坂から」は泣くことが出来なかった。「コクリコ坂から」は確かに良くできた映画ではあるが、アニメだけができる何か突き抜けたパワーが感じられなかった。もちろん、すべてのアニメにそのようなパワーが必要だとは思わない。だが、1960年代の日本を懐かしむ「三丁目の夕日」的なものは個人的にあまり好きではない。
自分が生まれたあの時代、日本人は確かに真面目に健気に頑張って働いて生きていた。だが、それをいま全面的に肯定する事は、自分には出来ない。あの当時の日本人の頑張りが最終的に何を作ったのか?それについては、もう多くを語りたくはないが、結果的には効率優先の原発社会を作ったのではないか。
ジブリが好きだったのは、アニメにしか表現しえない日常を超越した世界と、自然に対する畏怖と共存があり、それを見ていると何だか泣けてきてしまうのだったが、今回はそういったものはなかった。なんだか狭くなった感じがした。さらには1960年代にだって嫌な奴は沢山いたし、分かりやすい悪人は今より多くいた。それを昔の人はみんないい人のような「三丁目の夕日」的回顧ドラマは、今の日本の悲惨さから目を背けさせるためのアイテムのように感じてしまう。もちろん、製作者側にそんな意図はないと思うのだが、日本の過去を肯定することは現状を容認することにも繋がると思う。日本人は常に過去に対してはあまいのだ。あの時代から原発開発の火ぶたが切られたことを忘れてはいけない。
自分にとって同じようなものがジブリだ。ジブリはいつも泣くために見る。が、今回の「コクリコ坂から」は泣くことが出来なかった。「コクリコ坂から」は確かに良くできた映画ではあるが、アニメだけができる何か突き抜けたパワーが感じられなかった。もちろん、すべてのアニメにそのようなパワーが必要だとは思わない。だが、1960年代の日本を懐かしむ「三丁目の夕日」的なものは個人的にあまり好きではない。
自分が生まれたあの時代、日本人は確かに真面目に健気に頑張って働いて生きていた。だが、それをいま全面的に肯定する事は、自分には出来ない。あの当時の日本人の頑張りが最終的に何を作ったのか?それについては、もう多くを語りたくはないが、結果的には効率優先の原発社会を作ったのではないか。
ジブリが好きだったのは、アニメにしか表現しえない日常を超越した世界と、自然に対する畏怖と共存があり、それを見ていると何だか泣けてきてしまうのだったが、今回はそういったものはなかった。なんだか狭くなった感じがした。さらには1960年代にだって嫌な奴は沢山いたし、分かりやすい悪人は今より多くいた。それを昔の人はみんないい人のような「三丁目の夕日」的回顧ドラマは、今の日本の悲惨さから目を背けさせるためのアイテムのように感じてしまう。もちろん、製作者側にそんな意図はないと思うのだが、日本の過去を肯定することは現状を容認することにも繋がると思う。日本人は常に過去に対してはあまいのだ。あの時代から原発開発の火ぶたが切られたことを忘れてはいけない。
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