2014年5月7日水曜日

九條さんの思い出


九條今日子さんが亡くなった。

3月に朝倉摂さんが亡くなってから
まだ2カ月もたっていないのに、
池の下を長年に渡って支えてくださった方が
続けて泉下の人となった。

これまで池の下の寺山作品をほとんど
見てもらい、その度に感想を聞かせていただいた。
はっきりとした視点でアドバイスしていただくこと
もあった。ときには公演後、お酒の席にご一緒する
こともあり、天井桟敷時代のお話をいろいろと
伺ったりもした。

九條さんとの出会いは
れも偶然ではあるが朝倉さんとはじめてお会いした
「アラバールの大典礼」の現場だった。
稽古場で音響担当のHさんを叱っているのを見て
怖い人だと思った。だからその後に寺山作品の
上演許可をお願いする際に電話で緊張したことを
覚えている。

はじめて池の下を見てもらったのは
「花札伝綺」だった。公演が終わって劇場の入り口で
九條さんが出てくるのを戦々恐々と待っていた。
私を見つけると近づいてきて、タバコに火をつけながら
「寺山が見たら喜ぶわ」と言っていただいた。
「この辺に酒屋ある?」と聞かれ、しばらくすると
ビール1ケースの差し入れがあった。
そのときから18回目の寺山作品「阿呆船」まで
毎回差し入れをいただき、励ましてくださった。
池の下が寺山作品を上演していく中では
さまざまな困難もあった。とくに初期の頃は
観客から天井桟敷の上演方法と違うとクレームを
言われることもあった。終演後に怒って舞台装置を
蹴って壊そうとする人もいた。しかし、それでも
寺山作品を続けて行こうと思えたのは、九條さんの
応援があったからだ。
もう劇場に足を運んでもらえないと思うと途轍もなく寂しいが、
天国から寺山さんとお二人で見てくれていると心に思い、
これからも寺山作品を上演して行きたい。

2014年3月29日土曜日

朝倉さんの思い出


遠くに行ってしまったんですね。

そちらの世界はどうですか。

やはりなかなか面白い芝居はありませんか。

 

アトリエを訪れるといつも芝居の話になった。
最近みた芝居について歯に衣着せぬ感想を聞いた。
最後にお会いしたとき芝居の話は出なかった。
体調があまり優れない感じだった。
それから10ヶ月・・・先生は遠いところに旅立った。
そっちではどうですか?面白い芝居はありますか?
きっと先生の好きだった名優たちと演劇談義に
花を咲かせていることでしょう。

朝倉さんとはじめてお会いしたのは20代前半。
PARCOパート3で上演されたアラバールの「大典礼」で
舞台スタッフをやっていたときのことだった。
アトリエでデッサンを広げながらイメージについて
語る言葉が印象的だった。

それから10年以上たって、池の下を結成した。
そして寺山修司の連続上演をはじめたとき、一度で
いいから朝倉さんに美術をやってもらいたいと思った。
全くの無名劇団にも関わらず無謀にも電話したのだった。
断られることを覚悟していたが、一度会って話を聞きたい
と言われた。数日後、緊張しながらアトリエへの坂道を登った。
上演する予定の芝居について1時間くらい話した。
やりましょうとの言葉に一緒に行った劇団員と喜んだことを
覚えている。それから15本の芝居で舞台美術を担当してもらった。
打ち合わせのたびにイメージが広がって、小劇団ではとても
出来ないプランになったこともあったが、劇団の事情も
よく理解してくれて、舞台の実現化のための様々な方法も
考えていただいた。演劇の舞台ではなかなか使わないような
素材も斬新に用いて、既成概念を打ち破るような美術がいくつも
出来上がった。

劇団のトラブルで決まっていた公演が中止になり、
活動が休止したときは、心配して自宅近くの居酒屋に
呼んでいただき、劇団活動について色々アドバイスをしてもらった。
そのときに、どんな障害があっても劇団を解散しないと約束した。
そうして18年間、池の下は活動を続けてきた。

朝倉さん・・・あなたはいつも少女のように好奇心旺盛で、
何事にも偏見をもたず、こんな弱小劇団にも本気で
つき合ってくれました。本当に本当にありがとうございました。

この先は池の下が何らかの芸術活動を続けていくことが、
せめてもの恩返しだと思って、天国の先生に見せることが
出来るものを創って行きたいと思っています。
朝倉先生、長いことお疲れ様でした。

2014年3月11日火曜日

これでいいのだ


あれから3年たった。

あのときから何かが変わった。

それは日常のすべてに影を落としている。

 

赤塚不二夫の『天才バカボン』でエピソードの最後に
パパが「これでいいのだ」とよく言うが、いまの日本で
「これでいいのだ」と心の底から言うことは難しい。

あの前とあの後では、演劇に対する考え方、感じ方も変わった。
あの後はしばらく何を作ったらいいか分からなかった。
いろいろ考えて迷い抜いたあげくに、至極シンプルな結論に至った。
それは、いまやる意味のある芝居をやろうということだった。
別段その前は意味のない芝居をやっていたわけではないが、
芝居を作る上での第一義がいまやる意味があるかということに
なったのだ。

それから2作品を上演した。
どちらもいまこの国でやる意味があると考えて作った芝居である。
その意味がどこまで観客に伝わったかは分からないが、
現在まさに起こっている事の不条理を劇の中に少しでも感じて
もらえたならば幸いである。

このさき池の下はどこへ行くのか、
なにを求め、なにを作り、なにを伝えていくのか。
これから池の下はたぶん演劇にはとどまらない表現活動に
足を進めることになるのではないかと思う。
演劇という枠を越えて、人間という存在の不条理を探り続けて、
そしていつの日にか「これでいいのだ」と言える世の中に
なることを願って、池の下は活動していくつもりである。

2014年3月2日日曜日

3月に思う

また3月が来た。

春のイメージは3年前から確実に変わった。
何かがはじまる季節から、何かが終わる季節に・・・
そして人々は事故を忘れて、原発はすべて再稼働されようとしている。
さらにこの災害を起こした国の首相が自ら恥ずかしげもなく、
放射能を撒き散らした原発を海外に売ろうとしている。

日本はあらゆる意味で終わろうとしている。





2013年3月11日月曜日

復活の夢


あれから2年がたった。
あの前とあの後と多くのことが変わった。
それは被災地の人たちに起こったことに比べたら
極々些細なことかもしれない。
しかし、今でも確実に私の心のなかで
あの日を境に変わったものがある。

表現活動をする意味というものを常に考えるようになった。
表現として何かを残したいと考えるようになった。
表現の本当の意味での難しさを思うようになった。

しばらくは舞台を作ることが出来なくなった。
絵も描けなくなった。出てくるものは抽象的な言葉ばかりで
それが表現と呼べるものか分からなかった。
表現には他者が必要であるが、その抽象的な言葉たちは
自分の内面で共鳴するだけで、あえて鑑賞者を求めるもの
ではなかった。

あらゆる活動を停止して1年間、ほとんど冬眠状態で
過ごしてきた。そんなときに1本の台本と出会った。
はじめは台本自体も読む気がしなかったが、
一人芝居に近い形のその本は意外と素直に読むことができた。
読み終わってから、しばらくして夢を見た。
大きな建物の前に立つ一人の女性の夢を。
彼女はドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のように
旗をもって立っている。絵と違うのは、彼女はたった一人で
導かれる民衆は誰もいないということだった。
私は何かに急かされるような焦燥感を感じ、
目が覚めた後もいたたまれない思いに悩まされた。
しばらくは何かに追われるような焦りを感じて、
変な夢ばかりを見ていた。
そのとき予感のように閃いたのは、
この状況から抜け出すためには、この台本で
芝居を作らなければならないということだった。
それは、ひとつの啓示のようなものだった。
それがあったために、1年間の停止状態から
脱却することが出来た。

今、あらためて考えて、あれがいったい何だったのかと思うが
その後の日本の状況をある意味で象徴している
夢だったのかもしれない。
10万人を越える参加者を集めていた国会議事堂前の反原発デモは
最近は参加者が200人くらいにまで落ち込んでいるらしい。

だが、私の夢のなかの自由の女神は
たった一人でも旗をもって立っていた。
一人でもはじめられる、一人からはじまる。
夢が教えてくれたのは、そんなことだったのかもしれない。

2012年12月31日月曜日

闇の力


久しぶりの池の下の公演が終った。
おかげさまで全回満員御礼。
新たなシリーズも順調にスタートした感じである。

そして一段落する間もなく
今度は寺山修司作品である。
私の大学時代の同期が主宰する青蛾館の企画で
寺山の初期一幕劇の「白夜」「狂人教育」「犬神」
3作品を連続上演する。その内の一作品を私が演出する。

演出するのは「犬神」。
池の下では1999年に中野のザ・ポケットで上演した。
その後、2006年に利賀演出家コンクールで野外上演。
賞して、翌年の利賀フェスティバルで再演した。

今回、あらたに初演の地であるポケットスクエアで
上演するのも、なんだか因縁めいているが、13年目の
「犬神」を新しいメンバーでどのように作り上げるか
今から楽しみである。

この奥深い日本の闇に結びついた芝居について
考えながら、ふと、ある小説の一節を思い出した。

「どうして神聖は闇を背景にしていなければならないのか」

大変に意味深い問いかけであり、宗教とか神話とか様々な
神秘に対する、真実が潜んでいるように思える。
闇に宿る神聖は、今の日本ではすでに失われているように
思えるが、もしかしたら日本という国を動かす大きな原動力
この闇の力ではないだろうか。

闇について空想を広げながら、今回の芝居では
そんな闇がきらめく一瞬が見せられたらと
思っている。

 

2012年12月2日日曜日

素晴らしきバカ色ダンス



もう随分と前のことになるが、舞踏にハマっていた。
大学そっちのけで大野一雄舞踏研究所に通い、
大駱駝艦の合宿に行ったり、
笠井叡のワークショップに参加したりしていた。
 
だから、世田谷パブリックシアターの『ハヤサスラヒメ』は
かなり気にはなっていた。
しかし、なぜか見ることを躊躇いチケットは買わなかった。
だが、今日が楽日だというのをTwitterで知って
発作的に行ってしまった。
 
公演を見て、まず感じたことは
土方巽という同じ原点をもった麿赤兒と笠井叡が
半世紀をへて、このようにシンカ発展したのかと
いうことだった。
しかし、結局はまた同じカラダというカラに戻っていく。
そんなことを考えながら見ていた。
 
舞台は、ミルククラウンのような白い踊り手の残像からはじまる。
やがてセンターの光の道にふたりの主役が対峙する。
狂ったように踊りまくる笠井叡に対して
ほとんど動かない麿赤兒
動と静。異種格闘技戦。
それぞれの式神たちの対決。
オイリュトミーの女官たちの前で、踊る麿赤兒に軽い眩暈を感じる。
 
第九の合唱の中で、異なるカラダはいつしか同一の動きを生み出す。
 
なかでも秀逸だったのは
チュチュをはいた笠井と、スカート姿の麿が見せる暗黒バレエ。
なんでこんなにバカらしく、なんでこんなに素敵なんだ。
これは、かつての土方巽と大野一雄の「バラ色ダンス」ならぬ
「バカ色ダンス」だ。
ともに69歳。
自分もまだまだ頑張らねばと思った。