2012年3月11日日曜日

3.11 東京の片隅で

1年たった今日、多くの人がその思いを書くだろう。

東北で被災した人たちに比べたら
東京で暮らす私の1年目の思いなんて小さなものかもしれない。

それでもやはり書こうと思ったのは
あのときほど芝居をやることの意味というものを考えたことは
なかったからだ。

2011年3月11日14時46分。
あのとき、私は王子にある劇場の調光卓の前にいた。
強い衝撃の後に、平台を組んだ調光ブースは激しく揺れた。
劇場全体がミシミシと音を立てる。
このまま崩れるかと思い、一緒にいた劇場スタッフと
建物の外に逃げた。
揺れはまだ続いている。
電柱が大きく揺れ、向かいの3階建の住居もうねるように揺れる。
しばらくして揺れは収まり、劇場内を点検してから
仕事を終えた。

夜は、3日後に小屋入りをひかえた公演の稽古があるので
水天宮の稽古場に向かおうとしたが、電車がすべて止まっている。
王子駅前は人であふれている。
都営バスだけが動いていたので、満員のバスにかろうじて乗り込み
池袋まで向かったが、このさきも交通機関はすべて止まっていた。
これはもう駄目だと思い、今日の稽古は中止とのメールを制作に打つ
が携帯がまったく通じない。

とりあえず新宿まで出ればどうにかなるかと思い、明治通りをひたすら
歩いた。その時は、すでに1車線分が帰宅者の行列でつぶれていた。
1時間ほど歩いて新宿についたが、交通機関はまだ回復していない。
ファーストフードなども閉まっている。仕方がないので電車が動くまでと
思って、ゴールデン街の行きつけの店に行くと、2階にある店内は
ボトルが散乱し、スピーカーは落下し、足の踏み場もない状態の中、
ママが呆然と立ちつくしている。このままではどうにもならないので
割れたボトルを処分し、スピーカーを据え付け直して、1時間くらいで
何とか片づけ終わり、無事だったビールを飲ましてもらった。
その後、帰宅難民者の客が何人か来たが
12時過ぎに都営新宿線が動き始めたという情報が入ったので駅に
向かう。超満員の地下鉄で、ひと駅ごとに15分近く停車して、
ようやく2時過ぎに帰宅。

31階の団地の部屋は、廊下の本棚がすべて倒れている。
本棚と格闘して、本の山を乗り越えて、自室に行くまで15分以上
かかった。作業デスクは倒れ、パソコンが落下している。
チケット予約状況などすべてがパソコンに入っているので、
1時間近くかけて復旧。
メールを見ると、稽古場の水天宮ピットから、地震の安全確認のため
明日と明後日は使用中止になるとの告知。
このままでは明日から2日間の集中稽古が出来なくなる。
どうしようか迷い、時計を見ると午前3時半過ぎていたが、
ダメもとで公演を行うd-倉庫に電話をする。
何回かのコールの後、小屋つきさんが出て、事情を話し、
2日間稽古場として劇場をおさえた。
散乱する荷物の中を、明日からの稽古のための資料を用意して
気づいたら午前6時。朝になっていた。

その後、2日間の最終稽古は劇場で出来て、
怪我の功名などと言っていたが
原発事故の影響による計画停電で、公演初日まで本番が
できるか分からない状態だった。
劇場のある荒川区は停電地域に入っていたが、
地区が分かれているみたいで、どの地区が停電になるのか、
東電のホームページで調べようとしたがアクセスできない状態が
続いた。

さらに連日、チケットキャンセルの電話がかかってきた。
実家と連絡がとれない役者もいた。
こんな状況の時に芝居をやるのかという抗議のメールも届いた。
しかし、公演中止にはしなかった。
キャンセルはあるが、まだ公演を見ようとしている観客が
3百人以上いる。
舞台監督と打ち合わせて、地震時の避難対策は万全にした。
幸いd-倉庫は下手の鉄扉を全開すると、そのまま1階の駐車場に
出られる。舞監が誘導し、客席最後方にいる自分が最後に小屋を
出るつもりだった。
観客の入場前にも制作から、地震の時の避難説明があった。

だが実際に公演3日目、本番の10分前に震度3の地震があった。
舞台監督がすぐに客席前方に立ち
「ただいま茨城県沖を震源とする地震がありました。震度は3でした。
続行します」
とアナウンスをした。

その後は公演中の地震もなく、計画停電も指定地区からは外れて、
どうにか最終日まで公演を無事に終わらせることができた。

公演が終わり、考えた。
なんとか公演を成立させようと必死でやってきたが
この公演をやる意味は何だったのだろう。
そんなことはこれまで16年間劇団をやってきたが
考えたこともなかった。

演劇をやる意味。
それは表現したいことがあって
それを見たいという観客がいるということ。

それだけか。
それだけでいいのか。
それだけで本当にいいのか。
考えた。
そして劇団を一時休止して
さらに考えることにした。

1年間、考えた。

そろそろ結果を出したいと思っている。

2012年3月2日金曜日

生きる意味

このところ、連続して暗い映画を見ている。
「無言歌」と「ニーチェの馬」である。
ともに、絶望的な状況下での人間を描いている。

王兵監督「無言歌」の舞台は、1960年代の中国西部
ゴビ砂漠の収容所。右派と見なされた政治犯たちが
まともな食料もない中で、強制労働をさせられている。
飢えを凌ぐために、ネズミを食べたり、有毒だと分かって
いる植物を食べたりする。
つぎつぎと死んでいく人たち。
だが、その死体も無事ではない。生きのびようとする人たちに
食われていく。極限状況でも、生きつづけようとする人間たち。
救いはない。だが、人間は生きている。そんな映画だった。
暗いが、砂漠などの映像は素晴らしく美しい。
悲惨だが、美しいから見入ってしまう、そんな魔力をもった映画だった。

そして、昨日みたタル・ベーラ監督「ニーチェの馬」。
ひたすら強風の吹きつづける荒れた大地に棲む
父と娘の6日間の物語。
父は、半身不随で服の脱着にも、娘の手をかりなければならない。
唯一の収入源であった荷馬車の仕事は、老いた馬が荷台を
引けなくなり出来なくなってしまった。
毎日毎日、一個の馬鈴薯のみの食事。
井戸は涸れて、やがて光も失われる。
ここで描かれているのは、神が死んだのちの聖家族の生活だ。
それをモノクロの長回しで延々と見せていく。
宗教画のような神々しさをもった映像美だった。

絶望の果てでも、人間は生きつづける。
なぜだ?
なぜなのだ?
そんな疑問が私をとらえる。
そして、それは、人間はなぜ生きるのかということに至る。

人間が生きる意味。
分からない。
分からないが、人間は生きていかなければならない。

「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、
なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・・・・それがわかったら、それがわたったらね!」

この台詞が書かれてから100年以上たつが
それはいまだに謎である。