2011年9月24日土曜日

手は口ほどにモノを言い

ときどき、手がまったくダメな役者がいる。
演じているときの手が、生きていない。
手の動き、手の形、手の表情。

相手役に触れる手。
虚空に差し出す手。
自らを包み込む手。

劇のなか、演じる手が生きてこない。

そんなとき、稽古場では
「手に思想がないんだよ」とダメを出すが
手がダメな役者を変えるのは難しい。

人間のカラダの中で
目に次いで思考が露出するのは手である。
人類の進化の過程で
もっとも変化した部分が手と脳だ。
人間を人間たらしめているのは手である。

ただ、うるさい手は、劇の邪魔にもなったりする。
説明的な手、ありきたりな手、センスのない手。
歴史的に一番うるさかったのは
演説時のヒトラーの手。
あれは、他者を押さえつける手。
追いつめる手。
阻む手。

でも、手の形ひとつで
天地の理念をあらわすことも出来る。
仏教、陰陽道における印である。
シンボルを超えた宇宙的表現。

このさき100年後、
人間の言葉は、確実に変わっていくと思うが
人間の手はどうなっていくだろう。

手は寡黙になっていくか。
手は雄弁になっていくか。

いずれにしても
世界に向かって、開かれた手であってほしい。
他者に対して、開かれた手。
そして、多くのものを摘み取れる手。
パレスチナの国連加盟申請を見て
そんな思いを強くした。

2011年9月18日日曜日

演出家の目

このところ、街ゆく人びとの姿を
よく見ている。
いろんな人たちがいる。
その人たちが、一体どんな人間なのかを
見ながら、想像している。

身体の特徴、歩きかた、しぐさ、表情から
その人が、どこに向かっているのか
その人が、どんな状況なのか
その人が、なにを求めているのかを
ひたすら、ひたすら
見えてくることから、想像する。

気づいたら、これは演出家の目線だ。

創造の場から離れていても
人間をいつもそんな目線で見てしまう
悲しいさがではあるが
楽しんでいるのも事実です。

そして、ひとつ思ったこと。
日本人に、いま携帯電話がなくなったら
一体どうなるのだろう。
街ゆく人びとの多い場合は半分くらいが
携帯を操作している。
人間の歴史のなかで
歩きながら、こんなにも道具を使っていた時代が
果たしてあっただろうか。

これが進化なのか、退化なのか、分からないが
携帯をちょっとしまって、まわりの世界に目を広げると
秋の気配が感じられたりもするのです。

2011年9月14日水曜日

演出家は耳

以前、利賀フェスティバル参加公演でのこと。
予定していた音響家が事故でNGになり、急遽代わりの人にオペを
やってもらった。
野外での公演だったが、このときの音響が最悪だった。
つねにレベルが大きすぎるか、小さすぎるか。
曲のあたまでポンと聞かせて、あとは役者の台詞の背景にスーッと
入っていくような音だしがまったく出来なかった。
場当たりで何回かダメを出すと、
「蝉の鳴き声がうるさくてボリュームが分からない」という。
言い訳をいうスタッフは最悪だが、この人は音響なのに自分の耳を
持っていないなと感じた。

ところで演出家は耳である。
演出家の耳とは何か?

それは鮮度のいい耳である。
稽古場で、同じ台詞を何回聞いても、同じ音楽を何回聴いても
つねに初めて聞くような鮮度をもった耳。
慣れない耳、忘れられる耳、孤高の耳。

耳のダメな演出家は台詞を聞くことが出来ない。
台詞を聞くというのは、単に発音の良し悪しを判断したりすることでは
なく、役が台詞を語っているか、台詞が役を生きているかということ。

自分で本を書いて演出をやっている人は、
往々にして耳の幅がせまい。
それは自分から出た言葉を役者に語らせているからで
自分というフィルターを通して、耳がせまくなっている。
これはきっと演出家の耳ではなくて、作家の耳ということなのだろう。

2011年9月11日日曜日

新たな企画

いま考えている企画がいくつかあるのだが、
それらを具体化するためには、クリアしなければならない課題があり
当面はそれを解決するための作業ということになりそうだ。

ところで、企画を考えるのは面白い。
次々といろいろ思いつくのだが、実現化するのは1割に満たない。
その理由は、資金的な問題も大きいが
これは助成金などが取れればクリアできることで
やはり一番大きいのは人材的な問題だ。

この企画、やりたいのだけど
やらせられるパフォーマーがいないということで
断念する企画が数多くある。

自分が納得できるパフォーマーとの出会いが
企画を具体化する。

だから、しばらくは時間をかけて
人材を探すか、もしくは作るかという時期に入る。

2011年9月8日木曜日

演出の隠れ家について

何から隠れるのでもない。
いまさら隠れることもない。

だが、演出というものは常に作品のなかに
隠れているような気がする。

池の下で初めてホームページを作ったとき
「演出の隠れ家」というコーナーを作った。
それからもう10年近く経つが、今度はブログという形で
はじめたいと思う。

何が現れるか分からないが
徒然なるがままに、かつ消えかつ結びたる
演出のよしなしごとを
あやしく、そして密やかに、書きつづりたい。