2011年10月16日日曜日

「コクリコ坂から」を見て

昔、日本映画では「母ものシリーズ」というものがあって、ハンカチ持参でご来場くださいとの宣伝文句があったように、ある意味見て泣くための映画だった。

自分にとって同じようなものがジブリだ。ジブリはいつも泣くために見る。が、今回の「コクリコ坂から」は泣くことが出来なかった。「コクリコ坂から」は確かに良くできた映画ではあるが、アニメだけができる何か突き抜けたパワーが感じられなかった。もちろん、すべてのアニメにそのようなパワーが必要だとは思わない。だが、1960年代の日本を懐かしむ「三丁目の夕日」的なものは個人的にあまり好きではない。

自分が生まれたあの時代、日本人は確かに真面目に健気に頑張って働いて生きていた。だが、それをいま全面的に肯定する事は、自分には出来ない。あの当時の日本人の頑張りが最終的に何を作ったのか?それについては、もう多くを語りたくはないが、結果的には効率優先の原発社会を作ったのではないか。

ジブリが好きだったのは、アニメにしか表現しえない日常を超越した世界と、自然に対する畏怖と共存があり、それを見ていると何だか泣けてきてしまうのだったが、今回はそういったものはなかった。なんだか狭くなった感じがした。さらには1960年代にだって嫌な奴は沢山いたし、分かりやすい悪人は今より多くいた。それを昔の人はみんないい人のような「三丁目の夕日」的回顧ドラマは、今の日本の悲惨さから目を背けさせるためのアイテムのように感じてしまう。もちろん、製作者側にそんな意図はないと思うのだが、日本の過去を肯定することは現状を容認することにも繋がると思う。日本人は常に過去に対してはあまいのだ。あの時代から原発開発の火ぶたが切られたことを忘れてはいけない。