2011年9月14日水曜日

演出家は耳

以前、利賀フェスティバル参加公演でのこと。
予定していた音響家が事故でNGになり、急遽代わりの人にオペを
やってもらった。
野外での公演だったが、このときの音響が最悪だった。
つねにレベルが大きすぎるか、小さすぎるか。
曲のあたまでポンと聞かせて、あとは役者の台詞の背景にスーッと
入っていくような音だしがまったく出来なかった。
場当たりで何回かダメを出すと、
「蝉の鳴き声がうるさくてボリュームが分からない」という。
言い訳をいうスタッフは最悪だが、この人は音響なのに自分の耳を
持っていないなと感じた。

ところで演出家は耳である。
演出家の耳とは何か?

それは鮮度のいい耳である。
稽古場で、同じ台詞を何回聞いても、同じ音楽を何回聴いても
つねに初めて聞くような鮮度をもった耳。
慣れない耳、忘れられる耳、孤高の耳。

耳のダメな演出家は台詞を聞くことが出来ない。
台詞を聞くというのは、単に発音の良し悪しを判断したりすることでは
なく、役が台詞を語っているか、台詞が役を生きているかということ。

自分で本を書いて演出をやっている人は、
往々にして耳の幅がせまい。
それは自分から出た言葉を役者に語らせているからで
自分というフィルターを通して、耳がせまくなっている。
これはきっと演出家の耳ではなくて、作家の耳ということなのだろう。